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作曲と思索の愉しみ

オーケストラ作品の作曲・制作過程や、科学史と音楽史の研究にかかわる記録です。 森さちやの自作曲の公開も行います。 曲と思索を分かち合いたい。

2011.3.11以降、研究者として考えたこと(1) 

Posted on 11:44:09

 2011年3月の大災害・大惨事以降、世界が変わってしまった、と実感するようになりました。
 そして、変貌してしまったこの世界では、今までの決まりきった、慣れ親しんだやり方では通用しなくなる事柄が、どの分野でもいろいろと出てくるだろう、と考えました。
 
 科学史研究者としての立場から、私は、学問のあり方もこの衝撃をきちんと受け止めて、今後の学問はどうあるべきかを考えていかなければならない、と思うようになりました。
 
 私なりに考えてきた内容を、大学教員や研究者を読者対象とした紀要に執筆する機会が得られました(たぶん、巻頭言になります)。
 
 それに向けて書いた文章を、2回に分けて、以下に掲載します。
 
 興味ある方はご覧下さい。


 
今、学問はどうあるべきか(1) 

 ―2011.3.11 が研究者に突きつけたこと― 


§1.対象世界の変貌
 

 巨大津波と福島第一原発事故は、日本の社会や人々の生活に取り返しのつかない大きな打撃を与えた。住居や生活手段を奪われたり、目に見えない放射性物質におびえて生きていかねばならなくなったりした。
 この衝撃は、学問の領域にも及んでいる。
 なぜなら、学問とは、どの分野においても、それぞれの分野が想定している「世界」の探究であり、その探究対象となる世界が変貌したからである。
 政治、経済、科学、教育、法学など、どの分野においても、各分野の学問観を揺るがすほどの激震が起こったのではなかろうか。
 学問の対象世界は変貌した。具体的には、今まで曖昧なままに隠されていた領域・問題が、顕在化した、明確になった、という側面が多くみられる。
 原発事故は、科学技術がもっている自然を支配・破壊する本来的傾向性を明らかにし、近代科学技術の限界を示唆するものであった。また、原発の導入と推進が国家による主導でなされたこと、"原子力ムラ"なる利権集団が存在し、一部の既得権を持っている人々の利益のために、原発の危険性や安全対策が軽視されほぼ一方的に推進されてきたこと、アメリカからの圧力によって原発推進政策の方向付けがなされていたこと、など、今まで一部の専門家のみが認識していた事柄が、一般の多くの人々にも知れ渡るようになった。
 対米追随路線は、原発問題に限ったことではなく、第2次大戦後の日本政府の外交や安全保障政策などの局面にも採用されていた(せざるを得なかった)路線であったことが、原発事故を契機にして理解されるようになった。また、政府や報道機関は、場合によっては重大な事実を隠蔽したり、事実を捻じ曲げて報道したりすることもあるし、"御用学者"なる存在が、その隠蔽・歪曲に加担したりすることもある。こうしたことも広く認知されるようになった。
 原発事故は、単なる技術的機能不全ではなく、国家や資本主義経済システムや社会のあり方と密接不可分に結びついた、関係の網目の総体の破綻だったのである。各地で相次ぐ脱原発デモも、今後の原発事故や放射性物質の拡散への懸念や、核兵器開発との結びつきへの危惧といった動機のみによって拡がっていったわけではなく、原発事故によって露呈した政治・社会システムの惨状に対する不信感が、デモを強く後押ししているように思われる。
 一方、巨大津波は、日本の国土がそもそも過去たびたび地震や津波による大災害を被っていることを想い出させてくれた。東日本大震災と同様の、プレート境界型地震に起因する大津波による東北地方の災害には、明治三陸地震や平安時代の貞観地震などがあったし、西日本においては、東海・東南海・南海の3連動型地震が、江戸時代の宝永地震を筆頭に、数百年に1回くらい起こっている。3連動型地震がもし起これば、"西日本大震災"と名付けられるかもしれないほどの大惨事となる恐れもある。
 戦後の日本の高度経済成長やバブル経済の背景のひとつには、地震の静穏期にたまたま相当したという幸運もあった。今後の日本社会の存続を考える際、自然災害とどう折り合いをつけるか、という点を無視できなくなったといえる。
 おそらく、地震や津波に対して、地域共同体としてどう対処すべきか、といった伝承的な知恵が存在していたであろう。だがその知恵は一部しか生かされなかったようである。日本の近代化とともに、地域共同体の崩壊が進んでいったことが背後にはあった。その一方で、この災害を契機に、新たなコミュニティー構築の試みが、各地で始まっている。
 また震災は、日本の近代化の過程で、政策的に東北地方が冷遇されてきたことを浮かび上がらせた。地震予知の科学に関しては、少なくとも直前予知を成功させることは困難で、実用上無力に近いことも暴かれてしまった。
 このように、原発事故と巨大津波は、世界を変えた。そして、今まで暗黙のうちに隠されていた世界の呪縛構造を、すべてではないが、枢要なポイントに関して、明示化・顕在化させた。
 こうした世界の変貌、問題群の顕在化がもたらす衝撃を、学問の各領野は真摯に受け止めねばなるまい。
 

§2.学問分野の枠組・前提の見直し
 

 学問の対象世界の変貌に呼応して、学問のあり方も変わらなくてはならない。では、その変化の指針はあるのだろうか。
 歴史の動乱期・転換期においてはたいてい、社会の価値観の大転換が必然的に伴う。フランス革命は、政治社会制度の革命であったと同時に、政治思想、社会思想の転換でもあった。
 転換期においては、従来の思考様式では、同時多発的な変化の諸相を理解し、応対していくのは難しい。注目すべき新奇な出来事も、馴染んだ文脈内で理解しようとしがちになるが、それでは時代の変動が語りかける意味をつかみ損ねてしまうであろう。たとえば、脱原発デモを従来のデモの同列に考察するとしたら、物事の本質を見逃してしまう。
 それゆえ、今、学問に要請されている喫緊の課題は、<各分野が暗黙のうちに仮定している考え方や、前提となる公理・価値観を洗い出し、再検討すること>であると筆者には思われる。
 自分の属する研究分野に馴染んだ学者は往々にして、その分野の枠組に無自覚であったり、他の分野との前提の違いを意識していなかったりする。そして、自分たちの分野の研究者のみにしか理解できない内容の議論をしがちである。
 だが、最低限、ある分野の研究が他の領域の学問や社会とどう関連しているのか、見通しを立てることは必要であろう。その意味でも、各分野の枠組を自覚し、有効性を再検討することは必須であると思われる。
 どの学問分野も、"パラダイム"に束縛されて営まれている。それ自体は当然のことであり、非難されるべきことではない。だが、そのパラダイムが現在でも有効かどうか、意識的吟味は不可欠であろう。気付かずに、賞味期限の切れた概念や、政治的色合いが滲んだ概念を運用した考察がなされている場合もありうるのである。
 たとえば、「経済合理性」という概念が、原発維持・推進の正当化に用いられてきたが、処分の見通しが立っていない使用済み核燃料や、大惨事が起こった場合の金銭に換算不能な甚大な被害は、実質的に考察の枠から排除されていた。都合の悪いことは無視して、推進派たちがコントロールできる範囲内で、原発の経済合理性は議論されてきた。
 原発問題に限らず、「経済合理性」は、資源の有限性の問題や廃棄物の問題などを、矮小化し、制御可能な範囲でのみ考察に取り込む、といった傾向がある。
 このように、ある基本概念が、政治的に歪曲されていたり、思想的な荷重が加えられていたりすることがある。
 学問の対象世界が変貌し、問題群が顕在化した現在、従来の枠組・価値観のままでよいのか、自覚的反省が迫られているのではなかろうか。
 

2011.3.11以降、研究者として考えたこと(2)につづく

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