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作曲と思索の愉しみ

オーケストラ作品の作曲・制作過程や、科学史と音楽史の研究にかかわる記録です。 森さちやの自作曲の公開も行います。 曲と思索を分かち合いたい。

お詫び/STAP細胞をめぐって再論 ―我執と仏教的解毒― 

Posted on 09:21:27

 
 最近、何日間か、このブログが開かないことがありました。
 原因不明ですが、とりあえず、復旧したようです。
 閲覧者にはご迷惑をお掛けしたかもしれません。
 お詫びいたします。
 
 さて、以前の記事で、STAP細胞のもつ生物学的意義について、先走りすぎた考察をしてしまいました。
 今回は、この件に関する、現時点での私の考えをまとめ直しておきたいと思います。
 
 
 STAP細胞作成を証明する論文の、根幹部分で、不適切な操作がなされていることが判明したため、STAP細胞が成立したこと自体の実証性に疑問を抱かざるを得なくなりました。
 私は個人的には、このような能力のある細胞を、遺伝子レベルの操作をせずに、外的刺激や環境条件の設定のみで作成することは、理論的には可能である、とみています(理由は長くなるので今回は省略します)
 ただ、現時点では、それが実現できたか否かは、不確定であり、おそらく、再現可能な手段を提示するやり方では、まだできていないのでしょう。
 
 次に、不正な手段を使ってまでして、論文を仕上げなければならなかった研究者の背景について。
 皮相的には、激しい研究者間の競争的環境、成果主義、が考えられるでしょう。
 一定の期間にある程度の成果を挙げられなければ、研究を継続することすら出来なくなる惧れがあります。研究費や補助金の獲得も困難になります。研究者として生き延びるためには、科学者としての倫理の遵守を無視せざるを得ないところまで追い込まれることもあるのかもしれません。
 そして、この自然科学者のおかれた競争的環境は、現代社会の弱肉強食的な自由競争が肯定される価値観と無縁ではないでしょう。研究が、現世的価値観に侵食され、実利・利益と直結する研究が望まれるようになっています。競争原理に巻き込まれた研究者の意識も、功利主義に傾きがちです。
 また、自分の業績に過剰なまでに執着する自己中心的意識のあり方も、西洋近代社会が必然的に産み出した囚われのひとつでしょう。
 つまり、STAP細胞の論文疑惑は、近現代の社会的価値観に宿る負の側面を焙り出した事件、といえると思います。その意味では、こうした事件は“起こり得る”出来事であったし、今後もその可能性は残るでしょう。
 
 佐村河内氏の代作事件においても、自分の名前が残る、個人の業績名に対する過剰な執着が見て取れます。
 また、私の心の中を覗いてみても、自分の業績に対するこだわりが相当残っていることに気づきます。
 これらは、仏教的には「我執」(自己の中心に実体的な我があると錯認して執着してしまうこと)であり、ものの見方としては「迷境」である、ということになるでしょう。
 他人の行為を批判するのはたやすいですが、こうした事件を踏まえて、自らの生き方・考え方を見直すことのほうが肝要だと私は思います。
 近代の個人主義的価値観の呪縛に対しては、仏教的処方箋が有効だと私は常々考えていました。
 こうした懸案に対しては、「我執」の正体を理解することと、自らの営為の社会性・関係性―縁起―を諒解すること、が鍵となるでしょう。
 自我意識が、歴史的・社会的産物であり、人類的負荷がかかっていることを実感として認識すること。自分の研究や創作が、社会の他の人々にどのように繋がっていくのかについて、想像力をめぐらすこと。
 仏教思想は、「個人的業績に対する過剰な囚われ」に対する“解毒剤”として、活用できます。
 
 STAP細胞の論文疑惑事件と佐村河内氏の代作事件はともに、近現代の社会的価値観の「鬼っ子」といえるでしょう。
 その事件から、自らの生き方の襟を正す姿勢をもちたいものです。
 
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