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作曲と思索の愉しみ

オーケストラ作品の作曲・制作過程や、科学史と音楽史の研究にかかわる記録です。 森さちやの自作曲の公開も行います。 曲と思索を分かち合いたい。

内山節『新・幸福論』を読んで―大乗仏教思想の余韻― 

Posted on 09:21:07

 
 この書物は、大局的な歴史把握に基づき、転換点である現在を認識し、今後の社会や一人ひとりの人間の生きる指針を提起している、注目すべき著作です。
 考えさせられるさまざまな論点がちりばめられています。
 その中からとくに私が気になったポイントを取り上げ、検討してみたいと思います。

 
 
内山節『新・幸福論』(新潮選書、2013年)
 
 現在の日本は、近現代の国家や社会や経済が共有していた目標が「溶融した時代」を生きている、と内山氏は認識しています(同書、p.3)
 高度経済成長時代の社会構造が通用しなくなり、雇用環境が劣化し、将来の年金や社会保障の水準低下が予想される現状において、従来の価値観が共有されなくなり、社会全体で共有できる目標も「溶融」してしまった、ということです。
 この書物では、現状認識の視座として、「遠逃(えんとう)現象」というキーワードを案出しています。「大事なものが逃げていく現象」を括って指し示す用語です(p.25)
 例としては、国民に主権があるはずの政治が、手の内にあるとは実感できないこと、経済の在り方が私たちに大きな影響を及ぼしているにもかかわらず、自分の仕事の周りだけしかかかわりを持って感じられなくなっていること、などが挙げられています(pp.50-51)
 そして、「遠逃現象」の結果、「現代人の孤独」が発生し、「近現代の死」の到来を招いた、と内山氏は見ています。
 自分の生きる世界や自分と関係を結んでいるはずの世界がどこか遠くに逃げていく、という、自分が取り残されていくという感覚。この感覚と現代人の孤独感とは繋がっているのでしょう。また、戦後に作られたイメージの世界―経済の発展が人々を豊かにする幻想、あるいは物質的“豊かさ”の虚像―が遠くに逃げ始めています。そのため、戦後に形成されたイメージと、私たちの「幸せ」のイメージとが結びつかなくなってきている、と内山氏は語ります(pp.52-57)
 内山氏の言う「近現代の死」とは、戦後共有されてきた価値観の崩壊、と言い換えられそうです。その崩壊の底流に、「遠逃現象」がある、と見通したのです。
 
 こうした現状把握のもと、生きる実感を取り戻し、幸せに生きるための処方箋として、内山氏は、「関係の網をつくりだしながら、この関係の網と共に生きる」という生き方を提起しています。「地域主義ではないローカリズム」とも言っています(p.150)
 内山氏が上野村で自ら実践しているような、大事な関係を身近な人々との間でていねいに作り上げていくことが肝要なのでしょう。
 
「人間性の創造とは、自分とともにある関係の創造である」(p.163)
 
 この一文こそが、この著作で内山氏が最も言いたかったことなのではないかと思います。
 この結論から振り返ってみると、「遠逃現象」とは、「関係性からの疎外」とも言い換えられるでしょう。
 自然と人間との関係、ひとりの人間と共同体との関係、労働・生産との関係の中で汲み取れるはずの「意味」が遠くに逃げてしまった。それを取り戻したい。
 こうした問題意識は、西欧の近現代の思想家の中にもありましたが、最終的には「個人」を復権の中軸にすえていたため、功を奏さなかった、と内山氏は考えています。それに替えて、「関係の網」という大乗仏教の「縁起」思想と共振するような見方を提起したのでした。
 
 ところで、近現代の社会構造の矛盾を列挙する文脈の中で、興味深い喩え話を持ちだしています。エビの養殖投資(詐欺)の話です。
 その目的が投資の成功にあり、エビの養殖は手段に過ぎず、他の不動産投資などでも代用可能だ、という構図です。
 食料の生産は、人類にとっては生存に直結する目的でした。ところが、現在では、衣食住ためのお金が目的となり、そのお金を得るための手段として食糧生産がなされる、という、手段と目的とが転倒した事態に至っているわけです。
 この事例は、「遠逃現象」の一例であるだけではなく、近代的価値観に基づく目的志向の病理を物語っている挿話だと思います。経済的価値観が、生存に関わる行為をも侵食しているのです。
 内山氏は、戦後の日本社会の過剰な目標志向的在り方が、多数の人々を巻き込めなくなってきた、と見ているようです。「目標をたてて前進していくというあり方自体が途上国型なのである」(p.5)とも言っています。
 
「成熟社会があるとすれば、それは目標などもたない社会のことだ。文化や人間たちの営みの質を深めながらつくらていく調和した社会こそが成熟社会である」(p.5)
 
 この言葉の真意は、目標を重視せず、“方便”として過程を大事にしながら社会を営んでいこう、ということだろうと私は解釈しました。どんな行為も、目的のための手段とはせず、その場の関係を大事にしながら、その行為自体を慈しむようにして遂行していく、ということでしょう。
 「成熟社会」とは、「成熟した人間」と照応するはずです。
 どちらも、自分や自分たちの社会の目的のためだけに暴走したりしないでしょう。他者や他の社会に対する配慮を十分払うでしょう。“仮の”目的を方便として、その過程を充実して味わえるように心がけるでしょう。
 「成熟した人間」が社会を構成するようになって後、「成熟社会」は到来するのでしょう。
 このような「成熟社会」のイメージは、やはり大乗仏教思想と共鳴しているように、私には感じられます。
 「一切衆生悉有仏性」という汎神論的世界観から帰結する、「共生」や「利他」の精神や、「方便」としての目標設定、こうした大乗仏教思想と通底しています。
 それゆえ、私には、この著作は、「大乗仏教的視座から見た今後の社会の展望」と映ったのでした。
 
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