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作曲と思索の愉しみ

オーケストラ作品の作曲・制作過程や、科学史と音楽史の研究にかかわる記録です。 森さちやの自作曲の公開も行います。 曲と思索を分かち合いたい。

塩沢一平『万葉歌人 田辺福麻呂論』を読んで―共感する世界― 

Posted on 16:36:54

 
 新年早々、日本の文化の香りに触れたくなり、この本を読み始めました。
 
塩沢一平『万葉歌人 田辺福麻呂論』(笠間書院、2010年)
 
 予想に違わず、オーソドックスな学問的分析に基づく、堅実な学術研究書でした。
 知られざる万葉歌人に対する、多様な観点からの検討を通じての、適切な評価が目指されています。また、この歌人の歌の世界構造が開示されています。
 とりわけ、長歌や反歌に内在する対構造の指摘には、驚かされました。
 この歌人の世界観や精神性をうかがわせます。

 
 
 歌の立体構造
 
 『万葉集』に登場する、田辺福麻呂(たなべのさきまろ)という歌人は、柿本人麻呂や山部赤人らと同様に、宮廷歌人として位置づけられているそうです。
 ところが、この歌人はあまり知られず、研究もあまりなされていないようです。
 その一因として、彼の歌に対する低い評価が考えられると言います。
 田辺福麻呂の歌は「平板」だという、複数の論者からの評価があるそうです(同書、p.2)
 この評価に対して、塩沢さんの著作は全体を通して、反論しています。
 福麻呂の歌には、立体的な構造がある。
 このことが、塩沢さんが一番言いたかったことなのだろう、と私には思われました(見当ハズレでしたらごめんなさい)
 その構造とは、ふたつの長歌どうしの照応であったり、山川・春秋・動物の対比であったりします。さらに、視覚と聴覚の対比が隠されていることを、塩沢さんは指摘しました。それを、<視聴対>と呼んでいます。
 とりわけ、<視覚景><聴覚景>とのバランス(p.120)、という観点の提示には、私は感嘆しました。
 こうした分析は、おもに第一章で、表現・用語法・構造の分析を駆使して、見事な手捌きでなされています。
 一例を挙げておきます(第一章第五節より)
 「難波の宮にして作れる歌」(難波宮讃歌)の第一反歌と第二反歌が引用されています(p.105)
 
E あり通ふ難波の宮は海近み漁童女(あまをとめ)らが乗れる船見ゆ(1063)
F 潮干れば葦辺に騒ぐ白鶴(しろたづ)の妻呼ぶ声は宮もとどろに(1064)
 
 このEとFには、「奉仕を通しての讃美」と「景を通しての讃美」という対比と、「視覚を通しての讃美」と「聴覚を通しての讃美」の対比が組み込まれており、立体的な対構造をもっている、と分析されています(p.117)。そして、この対応関係は、反歌に先立つ長歌において構築された細やかな照応構造を踏まえたものなのです。
 長歌の照応構造の詳細な分析は省略しますが、「難波宮讃歌」が、「整然とした対応構造の讃美表現を持つ」(p.111)と言うことが、明確に提示されています。
 したがって、田辺福麻呂の歌が「平板」だ、という評価は、妥当とはいえないでしょう。
 彼の作品世界には、曼荼羅のような重層的な調和的秩序があるのです。
 さらに塩沢さんは、繰り返し用いられる<視聴対>表現に対して、六朝漢詩文からの影響の可能性を指摘しています。そうであるならば、<視聴対>の摂取は、ある種の世界観の継承でもありますから、すでに到来していた仏教思想に伴う世界観とともに、詩歌の領域においても、世界把握の枠組が移入されていたことになるでしょう。
 当時の文化の地理的状況を想起させる、興味深い指摘だと思います。
 
 多用される<聴覚景>のもつ意味
 
 さて、ここから先は、この著作に触発され、門外漢の私の脳裡をよぎった思考の断片を、戯れに記しておきます。
 田辺福麻呂に対する低い評価の例として、「詠歎や感動がない」という指摘があることを知りました(p.2)
 私は、これはないものねだりなのではないか、と感じました。
 「詠歎がない」というのは、裏を返せば、過度な個人的感情投影が抑制されている、と言えるわけです。見方によっては長所にもなります。
 政治的状況や自分自身の処遇などを情景に読み込むことを禁欲しているように、私には感じられました(久邇京讃歌と難波宮讃歌から受けた感触です)
 押し付けがましくないのです。自我がでしゃばっていないのです。
 むしろ、彼の歌からは、描写される情景と彼の心の動きとが溶融している陶酔感が伝わってきます。
 たとえば、「久邇京讃歌」の一節、「川近み 瀬の音ぞ清き 山近み 鳥が音(ね)とよむ」(p.40)といった表現です。
 あるいは、「難波宮讃歌」の一節、「朝はふる 波の音騒き」や、「葭辺(あしへ)には 鶴(たづ)鳴きとよむ」(p.105)といった表現からも、歌人の心と情景世界との共鳴を感じます。
 そして、これらの表現は、塩沢さんの言う<聴覚景>(p.117)の表現なのです。
 「福麻呂はより徹底した聴覚表現を用い、先行する宮廷歌人たちが切り開いた聴覚世界を拡張している」(p.119)と、塩沢さんは認識しています。
 視覚が、世界を対象化し、私の精神と自然とを分離する作用があるのに対して、聴覚には、取り巻く世界との共感や、一体化を促す傾向があります。
 また、視覚は見る対象を選べるため、能動的な知覚ですが、聴覚は到来する音響を選り好みできないため、世界に対して受動的な知覚といえるでしょう。
 受動的な<聴覚景>による描写を多用することにより、この歌人は、世界との陶酔的一体感を表現しようとしていたのではないか、と、日曜作曲家の私は感じたのでした。
 こうした感受性はおそらく、古代や中世の人々にとっては日常的な感性だったのかもしれませんが、近代合理主義の洗礼を受けた現代人には馴染みの薄い、実感の伴わない感触なのでしょう。そのため、近代の研究者から理解が得づらかったのではないでしょうか。
 田辺福麻呂の歌には、近代風の自我の投影としての詠歎や感動は希薄かもしれませんが、自己をむなしくした「共感する世界」、「陶酔の境地」が開かれている、と私には感じられました。
 先に挙げたふたつの讃歌は、上代の感性が濃密に発露した作品、と捉えることもできるかもしれません。
 
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