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作曲と思索の愉しみ

オーケストラ作品の作曲・制作過程や、科学史と音楽史の研究にかかわる記録です。 森さちやの自作曲の公開も行います。 曲と思索を分かち合いたい。

自分の心身は、自分のものではない ―『荘子』知北遊篇より― 

Posted on 15:40:17

 
 あけましておめでとうございます。
 
Asakawa in the Morning 
「浅川の朝」(クリックで拡大写真)
 
 これは、2014年1月の年賀状に採用した写真です。
 自宅近くの風景を撮りました。
 光と影のコントラストがよく出ました。
 
 今日は、上記のテーマを考察します。

 
 
 自分の「体」は、自分のものではない
 
 まず、『荘子』知北遊篇・第4節の出だしを紹介します。
 舜と丞との対話です。
 
舜「道は自分のものにできるでしょうか」
丞「そなたの体でさえそなたの持ちものではない。そなた、どうしてあの道を所有することができよう」
(金谷治訳注『荘子 第三冊』岩波文庫より、p.152)
 
 自分の体は、自分自身のものと疑わずに思い込んでいましたが、冷静に考えてみると、「所有」という概念とは馴染まないものだと気づきます。
 たとえば、上に掲載した写真を撮影したカメラは、私がお金を払って購入したものですから、常識的には、私の所有物です。衣類や、本や、CDや、時計などの身の回りにあるものもそうです。
 ところが、自分の体は、自分の意志で獲得したものではありません。いつの間にか、気がつくと、自分の体が存在していたのです。
 また、自分の体は、自分で十分に管理・支配ができるわけではありません。「死」に対して抗うことはできませんし、「老い」の進行に対しても、多少は緩和できるかもしれませんが、全面的に対抗できるわけではありません。不要になったからといって、簡単に捨てるわけにもいきません。
(これと似た議論を、池田清彦さんが、脳死移植の検討で展開していたと記憶しています。身体は自己の所有物ではないから、脳死の身体の処分決定権はない、といった趣旨の議論だったと思います。その本は手元にないので、出典を示せません。すみません)
 したがって、自分の体とは、『荘子』の言うように、「天地自然から預けられたかりそめの形だ」(同上)と理解すると、納得できます。
 身体は、天地自然に属します。その管理の一部を、自分に任されている、ということでしょう。
 天地自然は、自分の体の中にまで、深く根を下ろしているのです。
 
 自分の「心」も、自分のものではない
 
 丞による説明は続き、同様に、「生命」「性命(もちまえ)」も「そなたの所有ではない」と言います(同上)
 この論理は、自分の「心」にも当てはまるでしょう。
 自分の心も、自分の意志で獲得したものではなく、いつの間にか、自分の心の存在に気づくようになっていたのです。
 自分の感情や意欲といった、心の働きは、自分の意志でコントロールしていると思っていても、実際には、何ものかによって突き動かされてしまう事態もよくあります。
 フロイトやユングが指摘したように、自分の精神的活動に対して、意識的自我による支配は限定的なもので、制御の困難な無意識の活動がしばしば支配します。
 こうしたことを考慮に入れると、自分の心もまた、自分のものではない、といえるでしょう。
 自分の心も、天地自然から委託された活動である、と諒解できます。
 ユングの言う「集合的無意識」を、“内なる自然”と把握すると、ユングと老荘思想とがつながります。
 心もまた、天地自然に属します。その管理の一部を、自分に任されている、ということでしょう。
 天地自然は、自分の心の中にまで、深く根を下ろしているのです。
 
 この心身観の諒解の帰結
 
 さて、このような諒解は、生き方にどのように反映するでしょうか。
 まず、自己の心身と自然とが切り離されている、という近代的な誤解が解消されますから、自然界に対して共感的になるでしょう。自然に対する支配・管理の傾向は軽減されるでしょう。共生への志向性が深まるでしょう。
 また、同様に、他の人々に対しても、優しくなるでしょう。他者もまた、天地自然を内に抱え持っているからです。
 周囲の人々に対し、自ずと、譲り合う姿勢が生まれたり、怒りや悪口に対しても許容する精神が涵養されたりすることでしょう。
 つまり、とげとげしい人間関係が緩和されていくのです。
 自己の心身が、天地自然と繋がっている、との諒解は、近代合理主義の世界観を相対化、複層化し、人間社会を賦活する力を秘めている、と思います。
 この心身観は、人類が精神の古層に太古から継承してきたアニミスティックな物活論的世界観と親和的で、乾いた現代人の精神を潤す作用がありそうだからです。
 大森先生の語るように、「『心の働き』といわれているものは実は『自然の働き』」であり、「私と自然とは一心同体」なのです(大森正蔵『知の構築とその呪縛』ちくま学芸文庫、p.238)
 
 最後に、冒頭で紹介した、舜と丞との対話における、丞の発言の意図を推察してみます。
 「道」を体得する、というのは、老荘思想における根本テーマです。
 ところが、「自分」が道を獲得する、という意識を持ってしまうと、道の体得からかけ離れてしまいます。自我意識こそが、道の体得に対する障害物だからです。
 その点を、丞は衝いているのです。
 「自分」という意識における固着した特異点を解放せよ。
 「自分」のなかを流動する「自然」に気付け。
 このような声が、岩波文庫の中から聴こえてきたのでした。
 
※ 次のふたつの関連ブログ記事も、ご参照下さい。
 
 <老子とユングは似た事柄を語っている―道への帰一と個性化―>
 
 <自然の再活性化と生きる意味―略画的世界観の復権―>
 

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ジャンル - 心と身体

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