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作曲と思索の愉しみ

オーケストラ作品の作曲・制作過程や、科学史と音楽史の研究にかかわる記録です。 森さちやの自作曲の公開も行います。 曲と思索を分かち合いたい。

「根無し草」であること 

Posted on 17:08:14

 
 生化学者、シャルガフの自伝を読んでいたら、次の気になる文章に出会いました。
 
「結局、私は、自分の世代が典型的な根無し草なのだ、という結論に達しした」(E.シャルガフ、村上陽一郎訳『ヘラクレイトスの火』岩波書店、p.68)
 
 この一文に触発されて考えたことを、今回は綴ってみようと思います。

 
 
 シャルガフは、20世紀初頭に生まれたオーストリア出身の学者です。
 平穏な生活を送り、伝統的価値観に疑いを抱かない人々ならば、信仰や、伝統的宗教の慣習、郷土や祖国、科学や学問や職業、といった「根」を持っているだろうとシャルガフは見ているようです。
 それらのうちのどれかの土壌に根を張ることによって、多くの人は自らの人生の支えとしているのでしょう。
 ところが彼は、第一次世界大戦前後の時代の波に翻弄され、紆余曲折の人生を歩み、それらの「根」がことごとく幻想に過ぎないことを直観してしまったのでした。
 
「私が世界に向かって眼を開かれたとき、すでに世界は幻想を剥ぎとられたものとして存在していた」(同書、p.69)
 
 ここまで読んで、私は本を閉じ、考え込みました。
 では、現代の日本人の「根」はどうなのか、そして、私自身の「根」はあるのか、と。
 
 高度経済成長期以降、地域共同体が緩やかな崩壊を続け、西洋近代の文明と価値観に侵食され続けてきた現代の日本では、伝統的慣習や宗教や、郷土に「根」を実感する人は少なくなっているでしょう。さらに、終身雇用制も相当崩れてきているため、会社に対する所属意識も変わり、自らの職業に対しても「根」を感じられなくなりつつあるかもしれません。
 ただ、そうしたしがらみの「根」から多少とも解放され、生き易くなったという一面もあるでしょう。
 「根」は、人生に活力を浸透させる意義もありますが、人生に対する束縛・抑圧にもなります。
 現代の日本人は、その両義的な「根」の効果と拘束をともに喪失しつつあるのが現状かもしれません。
 さまざまな幻想の呪縛が弱くなり生き易くなった反面、生きる張りとなる「根ざすもの」が見つからずに生命力が干からびつつある――
 こんな状況ではないでしょうか。
 
 私自身はといえば、出身地の地域共同体への帰属意識はほとんどないし、特定の宗教に対する信仰もなく、さらに自らの学問の専門分野に対して没入しすぎること対しては警戒心を持っている、という有様ですから、シャルガフと同様、「根」に相当するものがどれも幻想であることを実感してしまった人間です。
(ただし、幻想であるとわかっていても、それらの「根」が持つ暗黙の拘束力から逃れられているわけではありませんが、そのこととは異なる性質の話をしています)
 私は、組織宗教や、自然科学や、学問分野や、職場などは、「人工的」な根に過ぎず、全人格的存在の土壌にすべきものではないだろうと考えています。
 さまざまな社会的価値観から距離を置いた私の姿勢は、確かに“根無し草”ではあるでしょう。ただし、それは、人工的価値観には根ざしていない、というだけのことです。
 特定の神を信じてはいませんが、自然界に対する崇敬の念は強く持っています。そして、自然界から活力を賦与されていると感じています。これは私の宗教心といってもいいと思います。
 小学校や中学校の頃、実家の近くの川原や裏山で遊んだ経験は、人は自然の息吹によって活かされている、という感触を私に教えてくれたように思います。
(今から振り返ると、命の危険と隣り合わせの経験も何度かしました)
 今でも、近くの浅川の土手を歩くのが好きで、土の上を歩くと、命が漲ってくるように感じることがあります。多少とも人工的自然ではあっても、大地には生命を養う包容力が備わっていると感じます。
 山崎豊子さんの著作のタイトル『大地の子』は、まさに人が根ざすべきものを指し示しているのではないでしょうか。
 命は、大地が育み、大地に還ります。
 子供の頃から私は、死んだら土に還るのだなあ、とイメージしていました。生命の母体の自然界に対する漠然とした信頼を持っていたようです。
 そのような意味で、私は、自然・大地に根ざしている、と感じていました。
 
 根ざすべき「自然」は、人間の外側だけでなく、人間の内側にもあります。
 人間の内なる自然、太古からの無意識の層、ユングの言う「集合的無意識」も、根ざすべき「自然」であると、私は理解しています。
 ユングが「個性化」という言葉で指し示す生き方は、「集合的無意識」に根ざしつつ生きる生き方のことだと了解するようになりました。
 このことは、『老子』の「無為自然」に生きることと重なり合います。
 
※ユングの「個性化」と『老子』の「無為自然」については、前回のブログ記事で論じましたので、参照してください。
 
 <老子とユングは似た事柄を語っている―道への帰一と個性化―>
 
 結局、私もシャルガフと同様に、人工的・社会的価値観に関しては“根無し草”なのですが、広い意味での自然や大地に対して“根ざしている”という感触をもっている、という結論に達しました。
 

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