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作曲と思索の愉しみ

オーケストラ作品の作曲・制作過程や、科学史と音楽史の研究にかかわる記録です。 森さちやの自作曲の公開も行います。 曲と思索を分かち合いたい。

モーツァルトのピアノ協奏曲の魅力と、作曲の極意 

Posted on 09:20:46

 
 私はモーツァルトのファンで、とりわけ、ピアノ協奏曲を愛好しています。そして、ピアノ協奏曲というジャンルの中でも、モーツァルトの作品群は、ひときわ輝いていると感じています。
 「モーツァルトのピアノ協奏曲の魅力」というテーマは論じ尽くされているテーマかもしれませんが、音楽史研究と、管弦楽の作曲に取り組んできた人間として、個人的見解を付け加えてみようと思います。
 
 
 モーツァルトピアノ協奏曲の魅力
 
「モーツァルトの後期のピアノ協奏曲を凌駕する作品はいまだに見あたらない」
 
 これは、作曲家のハワード・グッドールが『音楽史を変えた五つの発明』のなかで語っている言葉です(松村哲哉訳、白水社、p.180)
 このコメントに出会ったとき、わが意を得た思いがしました。
 私も、モーツァルトの20番以降の協奏曲は、このジャンルの最高峰であろう、と感じていたからです。
 私は音楽史上のピアノ協奏曲を網羅的に聴いてきたわけではありませんが、かつて聴いてきた知名度の高い曲の中では、モーツァルトのピアノ協奏曲が最も魅力的でした。もちろん、ブラームスの第2番や、ラフマニノフの第2番など、何度も聴き返したくなる曲が目白押しの領域であることはいうまでもないのですが、その中でも別格なのです。
 モーツァルトの後期のピアノ協奏曲のなかでも、20番と24番と27番は、とりわけ私のお気に入りで、CD演奏をそれぞれ複数枚集めていますし、スコア研究も行っています。
(ピアニストとしては、グルダと内田光子を愛聴しています。モーツァルトのよさが自ずと引き出される演奏をしてくれます)
 20番と24番は、短調のピアノ協奏曲で、感情の起伏、あるいは情動の嵐のような波に翻弄されます。また、人生の悲哀や、世界の理不尽さが楽曲全体から滲み出ているように感じます。
 (私が作曲したピアノ協奏曲≪冥界へ≫はこの2曲を大いに参考にしました)
 それに対し、長調の27番では、情動は抑制され、透き通った明澄な世界が描かれています。
 モーツァルトの最晩年、1791年に完成した27番は、同年作曲のクラリネット協奏曲や≪アヴェ・ヴェルム・コルプス≫、≪魔笛≫序曲とともに、モーツァルトが見出した新たな境地―抑制の美学―を開示していると思います。礒山雅さんは、モーツァルトの最晩年を「豊饒の年」と語っています(『モーツァルト二つの顔』講談社、p.65)
 
 では、なぜ、モーツァルトのピアノ協奏曲にはすばらしい魅力があるのでしょうか。
 シンプルな回答としては、モーツァルトの作曲家とピアニストとしての類まれな才能、ということに尽きるのかもしれませんが、それ以外の時代背景の要因や、曲の構造に内在する要因について、私なりに考察を加えてみようと思います。
 
 時代の条件
 
 18世紀末の古典派の時代、オーケストラの編成規模は、19世紀の3管編成のフルオーケストラに比べると小さく、弦楽器群に対して、木管・金管の管楽器は、計10本程度でした。
 それゆえ、モーツァルトの協奏曲では、オーケストラとソロ楽器とのバランスが、程よく感じるのです。オーケストラがあまりでしゃばらず、ソロ楽器が無理せずに輝きます。
 ベートーヴェン以降の協奏曲は、交響曲に比べれば控えめであるものの、オーケストラの規模が拡充され、協奏曲ではソロ楽器がオーケストラと“対決”しなければなりません。音量・色彩感とも、オーケストラが目立ってしまうのです。
 こうした時代背景の偶然的要因も、結果として、モーツァルトのピアノ協奏曲のピアノを引き立たせたといえそうです。
 
 また、当時はピアノはまだ新しい楽器で、ピアノの進化途上の時期にモーツァルトは生きていました。モーツァルトは現在の88鍵のピアノとは異なり、シュタイン製の61鍵のピアノを用い、そのピアノ音域を念頭において作曲していたようです(ただし、以降にベートーヴェンらによって付け加えられたカデンツァでは、もっと広い音域が用いられています)
 音域の狭さは、今日から見るとディスアドヴァンテージかもしれませんが、モーツァルトのピアノ協奏曲からは、その音域に由来する窮屈さや妥協はさほど感じられません。むしろ、超低音域や超高音域がないため、耳障りな刺激的な音が少ない、という効用のほうが大きいように思われます。
 私の個人的好みの問題かもしれませんが、ロマン派のピアノやヴァイオリンの協奏曲からは、しばしば音域や演奏法に起因する不快な刺激を受け取ってしまうことがあります。モーツァルトの場合、その原因が未然に取り除かれているといえます。
 こちらの時代条件も、偶然ではありますが、結果として、モーツァルトのピアノ協奏曲を心地よく聴きやすい作品にしたといえるでしょう。
 つまり、時代の束縛によって、かえってモーツァルトの本質が析出しやすくなっていた、ということです。
 
 曲に内在的な要因
 
 モーツァルトのピアノ協奏曲は、形式に則って書かれています。第1楽章は必ずソナタ形式で、なおかつ、古典派の協奏曲に一般的な、第1提示部と、第2提示部というふたつの提示部を持ちます。その後、展開部、再現部と続きます。
 ところが、モーツァルトの曲からは、枠に縛られた束縛感は覚えません。むしろ、自在に奔放に曲が生成していきます。
 私の推測ですが、モーツァルトは次々と湧き上がってくる曲想を、あまり手を加えることなく、所定の形式の中に盛り付けていく、というやり方を採っていたのではないでしょうか。形式に基づいて作るのではなく、着想を主体として、それを枠の中に落とし込む、という方法です。
 つまり、枠に縛られずに、枠を自在に活用するという志向です。
 そのように推測する根拠は、曲から受ける印象以外にもあります。
 形式に則ってはいるのですが、小さいフレーズのまとまりの小節数を調べてみると、8小節とか16小節といった幾何学的に秩序だった小節数となっている場合はテーマ以外では少なく、11小節、15小節といった、非対称的な小節数となっている場合のほうがずっと多いのです。
 このことは、大まかには形式に準じているものの、曲の素材は自発的に生成してきた断片をそのままスコアにしていることを暗示しているのではないでしょうか。そして、その自発性を歪めないように枠の方を微調整しているように思われます。
 おそらくモーツァルトは、形式を意識しつつも、また枠を大まかには守りつつもそれに縛られることなく、自発的な曲の流れを重視し、インスピレーションの自在さを損なわないように形式を利用していたのでしょう。
 このことは、私がモーツァルトから学んだ“作曲の極意”です。
 
 枠組を無視せず、枠組に縛られず、枠組を自在に活用する。
 
 このことがたやすくできるようになるには、その枠組の長所や限界を知り尽くし、その枠組を相対化する視線も持っている必要があるでしょう。
 モーツァルトは、与えられた条件を自分にとって最も有効に活用した天才であった、と私は思います。
 それゆえ、時代の制約から突出する才能の爆発が可能となったのでしょう。
 
 このような曲の構成に内在する要因と、時代の偶然的要因とが相俟って、モーツァルトのピアノ協奏曲の傑作群を生み出したのでした。
 
 最後に蛇足です。
 上記の“作曲の極意”は、「人生の極意」ともいえると私は諒解しています。
 枠組に対する自在な姿勢です。
 作曲も人生も、内発的なものを損なうことなく、与えられた条件の制約下でその枠を有効に活用し、場合によっては枠組から脱出して道を拓いていく。
 モーツァルトの人生はまさにそうでした。
 モーツァルトは、私にとって、作曲の師匠であり、人生の師でもあります。
 
ピアノ協奏曲≪冥界へ≫第1楽章<地下の迷宮>は、10/27、または11/3に公開予定です。ほぼ出来上がっています。
 第2楽章<西方浄土>の修正版も並行して制作中です。
 
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