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作曲と思索の愉しみ

オーケストラ作品の作曲・制作過程や、科学史と音楽史の研究にかかわる記録です。 森さちやの自作曲の公開も行います。 曲と思索を分かち合いたい。

元祖クーンの「パラダイム論」は現状追認的 

Posted on 16:34:16

 
 20世紀後半の科学史研究の潮流を大きく変えた、トーマス・クーンの「パラダイム論」は、さまざまな分野、たとえば社会・経済理論や芸術の分野にも転用・拡張されて使われるようになりました。
 クーンから離れて使われるようになった「パラダイム」という用語は、本来持っていたニュアンスから相当逸脱をしていきました。
 私は個人的には、逸脱し変貌していった「パラダイム転換」の概念により魅力を感じるのですが、今回のブログでは、クーン本人が持っていたであろうイメージと、拡張版「パラダイム」との対比を行ってみようと思います。
 
 
 オリジナルなパラダイム論の図式
 
 科学史家で、クーンの『科学革命の構造』(みすず書房)の翻訳者の中山茂さんは、自身を、「クーン本人よりも一番のクーニアン」と認め、「パラダイムという言葉をクーン亡き後まで、オリジナルな形で使用しようと思っている」と宣言しています。
 (中山茂『パラダイムでたどる科学の歴史』ベレ出版、p.9)
 上記の書物の中で、中山氏は、クーンの提唱したパラダイムの定義を、次のように簡潔にまとめています。
 
「一定の期間、科学上の問い方と答え方のお手本を与えるような古典的な業績」
 (同書、p.10)
 
 その具体例として、アリストテレスの『フィジカ』(自然論)やニュートンの『プリンキピア』といった著作が挙げられます。
 そして、その本を後の人々はお手本にして、「通常科学」を進歩させていくわけです。
 しかし、その路線がうまく機能しなくなると「パラダイム転換」あるいは「科学革命」が過去の科学の歴史では起こってきた、という図式です。
 
クーン自身が「パラダイム」を多義的に使用していたこともあって、オリジナル概念を特定するのは容易ではありません。そのため、ここではクーニアンを自認する中山茂さんの見解を採用しました。
 
 この「パラダイム論」の図式には、後の拡張された「パラダイム」の議論から感じられる「社会や自己のあるべき姿の追求」の気配はなく、むしろ、科学の歴史の動きは、現実にこのように変化してきたのだ、というリアルな冷めた視線が感じられます。
 「パラダイム」の概念は、クーン本人も多義的に用いていたし、さらに多くの論者がその概念を勝手に転用・拡張して用いてきたため、その概念に対する批判も相次ぎ、クーン自身はその用語の使用を控えるようになりました。
 ただし、クーンが使用制限するようになったのは、そうした事情だけではなく、流通するようになった「パラダイム」のイメージが、自身の想定していたものから大きくかけ離れ、クーンにとっては望ましくないニュアンスが付加されてしまった、ということも無視できないと私には思われます。
 クーンは、科学の営みを「動物行動学者」の眼で観察していました。
 (出典は探し出せないのですが、クーンの論考にこうした言明があったのを記憶しています)
 そして、科学の「理想的なあり方」を求める姿勢を拒絶していました。このことは、ポパーの科学論との対比で明らかです。
 クーンの現状追認的姿勢からすれば、学術世界に広まった「パラダイム」という用語にに重ね合わせられ始めた“変革への意志”や“社会批判への展望”といった透かし絵は、余計な夾雑物に映ったことでしょう。
 
 ポパーの科学論は理想を語っている
 
 科学哲学者、カール・ポパーは、科学理論であるか否かの目安として、「反証可能性」という概念を提起しました。その理論に「反証可能性」が担保されていれば、科学理論といえるが、そうでなければ、科学理論とはいえない、という趣旨の主張です。
 ポパーは、科学理論と、疑似科学や非科学の理論との境界線を引きたかったのです。
 たとえば、ポパーによれば、フロイトの抑圧理論は、どんな実例でもフロイトの無意識や性の抑圧の概念道具でさまざまに言い繕うことが可能なため、科学理論とはいえない、ということです。それに対し、一般相対性理論は、太陽の近くを通る光の屈曲を定量的に予言しましたが、もし観測値がそれに合致しないならば、その理論は反証され、否定されることになるわけです(実際は合致しました)
 こうした事例をポパーは挙げて、「反証可能性」を有するか否かが、科学理論とそうでない理論との境界の判断基準となる、と主張したのです。
 (K. ポパー、大内義一・森博訳『科学的発見の論理』恒星社厚生閣)
 ポパーの反証主義によれば、観察や実験によって、理論が反証されることはありますが、理論が真であることを検証することはできません。この点で、否定と証明とは、論理的に非対称です。新しい理論は、実験・観測データによりテストされます。その理論がテストにより支持されれば、その理論は暫定的に受け容れられます。テストにより否定されれば、その理論は棄却され、改善された理論が提案されることでしょう。このようにして、科学は進んでいく、というのが、ポパーの反証主義的科学観なのです。
 
 しかしながら、この反証主義は、ポパー以降の科学哲学者や科学史家たちによって批判されました。主な批判点は、次の2点です。
 まず、この見方は、実際の科学者の行動様式・思考様式と合致しない、という点。反証例が示されても、たいていの科学者は、そうやすやすとは自分の仮説を放棄したりしないものです。
 次に、歴史上の経験則とも合致しない点。反証例自体が誤りであると後に判明した事例が、科学史上には相当あります。また、補助的な仮説の追加により、観察や実験と合うようにしてその理論を守る事例も、歴史上こと欠きません。言い抜けができないように、観察や実験によって決定的に理論を反証するのは、実際には困難です。さらに、時が経過した後、反証され、否定されたかに見えた理論が復活した例もあります。
 
 しかし、これらの批判を認めても、ポパーの「反証可能性」は、条件付きで、適用範囲を限定すれば、依然として有効な概念である、と私は考えています。
(この点に関しては、いずれ私の考え方を展開します。今回は、議論の脈絡からややそれるので、割愛します)
 
 さて、ポパーに対してなされた批判は、要約すれば、「現実はそうじゃない」ということに尽きます。
 ですが、ポパーはむしろ、科学の営みはこうあるべきだ、という理想像を提起したかったのではないかと思います。クーンとは対照的に、ポパーはイデアの世界を追究するプラトンのような哲学者タイプだったのです。
 ポパーとクーンの科学論の違いの本質は、ここにあると思います。
 理想家肌と、現状追認タイプ、の違いです。
 内容的には、どちらも一理ありますが、タイプの異なるこの二人の論者が存在したことで、科学史や科学哲学の議論がより豊かに深まったのは確かでしょう。
 
 パラダイム概念は武器である
 
 クーンの議論との対比のために、ポパーを持ち出したのですが、脇道がやや長くなってしまいました。
 「パラダイム論」のオリジナルは、理想を語ったものではなく、科学の歴史の現実を踏まえた理論でありました。そのことから派生した脱線でした。
 「パラダイム論」の広がりの話に戻ります。
 
 クーンの提唱した「パラダイム」の概念は、やがて、さまざまな分野で用いられるようになります。大まかには、その領域の約束事や、理論的枠組、あるいは思考を縛っているもの、といった意味合いで、本来の概念が拡大解釈されて、使われていきました。
 また、それらが社会的に拘束されている性質のものであることも、同時に強調され、注目されるようになりました。
 そして、論者によっては、「パラダイム」自体よりも、パラダイムの「転換」の様相を重視するようになります。
 拡張された意味合いでの、社会的被拘束性を有する「パラダイム」から、いかに脱出するか。
 個人的にも、社会的にも、これが新たなテーマとなっていったのは、必然的でした。
 1960年代から1970年代にかけての、世界や日本の情勢も、この動向を助長したのは間違いありません。学園紛争や、核戦争勃発の懸念、西洋近代の侵略的・闘争的価値観への疑いと新たな価値観の模索、ヒッピー・ムーヴメント、大量生産と大量消費による資源の枯渇問題や公害問題への対処、などなど、現状の世界観を打破して、新たな世界像を探る動きが並行的に各地で噴出していた時代でした。
 (『科学革命の構造』の原著は1962年、日本語訳は1971年)
 つまり、「パラダイム」の概念は、時代の要請から、クーンの手を離れて、変革のための概念道具として活用されるようになったのです。
 
 たとえば、生物学者で『反科学論』の著者でもある柴谷篤弘さんは、「パラダイム」は二次的概念で、自分の思想や実践は「パラダイム転換」を基本概念とする、と1991年の著書で述べています。
 (柴谷篤弘『私にとって科学批判とは何か』サイエンスハウス社、p.119)
 関心の焦点は、「パラダイム転換」にあるのです。
 ひとりの人間が成長していく過程で遭遇する自己変革や、現状の政治や制度と深く結びついてしまった現代科学に対する批判のために、「パラダイム転換」の概念は有効に活用できるのです。
 柴谷流の「パラダイム」の定義は、以下の通りです。
 
「パラダイムとは、〔科学〕革命によって転換されるところの当のもの」
 (同上、〔〕は柴谷氏による)
 
 科学の歴史で何度か起こった「パラダイム転換」の事例を、それ以外の社会的領域や、個人の成長の過程に応用できるのではないか。
 おそらく柴谷さんは、そうした展望を持っていたのだろうと思います。
 そして、その展望は、現在でも可能性がある、と私は感じています。
 「パラダイム」という言葉によって、自らの思考・認識がある枠組に縛られていることを自覚しやすくなるでしょう。また、「パラダイム転換」をつねに念頭に置くことによって、その転換を阻んでいる既存の「パラダイム」の実情を理解しやすくなることでしょう。
 
 クーン本人の意識の中では、現状追認的な意味合いで提唱した「パラダイム」の概念は、広く流通する過程で対極的なニュアンスが付加され、現状打破のラディカルな思想と相性のよい概念へと変貌を遂げました。
 クーニアンの中山茂さんは快く思っていないかもしれませんが、変容した「パラダイム」概念は、私には魅力的です。
 現実を踏まえることももちろん大事ですが、それと同時に、あるべき姿の追究と、それに向けての構造的変動を展望することも、不可欠のことと考えます。
 
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