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作曲と思索の愉しみ

オーケストラ作品の作曲・制作過程や、科学史と音楽史の研究にかかわる記録です。 森さちやの自作曲の公開も行います。 曲と思索を分かち合いたい。

T.クーンの、科学と芸術の比較論をめぐって ―「美」は手段か目的か― 

Posted on 16:57:13

 
 「パラダイム」概念を提唱し、科学史研究の潮流を大きく変えたトーマス・クーンに、科学と芸術の比較論を展開している論考があります。
(「科学と芸術の関係について」、安孫子誠也・佐野正博訳『科学革命における本質的緊張』みすず書房、第14章)
 
 その論考の趣旨は、科学と芸術には類似点もあるが、差異もあり、その違いは重大である、という主張です。そして、その主張を支持するいくつかの個別的論点を提示しています。
 その個別的論点はどれも興味深いのですが、私から見ると、考察が皮相的で本質をつかんでいないと思われる点が散見されます。
 
 今回は、クーンの科学と芸術の比較論における論点の紹介と、それに対する私の見解の対置を行ってみようと思います。
 
 
 クーンの論点
 
 クーンは、科学と芸術との間に、いくつかの点で類似性があることを認めています。
 科学の「理論」と芸術の「スタイル」、科学と芸術の生産物(ともに美しい図像をもつ)、科学と芸術の活動の仕方、などに、相通じる点を見出しています。
 しかし、クーンはむしろ、それらの類似性にもかかわらず、科学と芸術との間には、見過ごすことのできない差異があり、その差異の認識こそが重要である、と考えているようです。
 たとえば、科学と芸術の活動の仕方に関して、どちらの分野でも、「美の諸形式への配慮」が重要な役割を果たしていることを認めています。科学の場合でも、数学的表現における対称性・単純性・優雅さなどの審美的観点が入り込む場合が確かにあります。
 ところが、クーンによれば、「美」の位置づけが科学と芸術では決定的に異なります。
 
「芸術においては、美それ自体が仕事の目標である。これに対して科学では、せいぜいのところ再び手段であるにすぎない」(同書、p.453)
 
 科学における目的、「専門的パズルを解く」ことのための、選択基準を提供したり、想像力を導いたりする役割を果たすけれども、科学において「美」それ自体が目的となることはない、とクーンは考えます。
 
 「美」が手段として活用された科学史上の実例として、クーンは、ヨハネス・ケプラーの惑星運動論を挙げています。
 ケプラーは確かに、自然界の数学的調和に関する審美的見解を持っていました。しかしそれは「楕円軌道が自然に合致しているという彼の発見において道具として役に立った」に過ぎない、とクーンは判断しています。
 ケプラーの美的考察は、「観察された火星の運動の記述という差し迫った専門的パズルの解決のための」道具であった、とクーンは捉えます(同書、pp.453-454)
 
 このように、芸術の世界と同様、科学の世界にも「美」的要素は入り込むけれども、科学者にとっては「美」は「専門的パズルを解く」という目標のための手段に過ぎない、という「重大な差異」がある、というのが、クーンの見解です。
 
 美は手段か目的か
 
 上記のクーンの考察に接したとき、私は、議論のテーマとしては興味をそそられましたが、彼の見解には納得できませんでした。
 科学者の、人間としての活動に対して、あまりに表面的で、プラグマティックに捉えすぎている、と感じました。
 ここからは、クーンの見解と、ケプラーの事例解釈に対して私が感じた違和感を、解きほぐしていきたいと思います。
 
 まず、ケプラーついてですが、彼の惑星運動論、ケプラーの3法則は、探究の目的ではなく、手段であった、と考えられるのではないでしょうか。
 ケプラーが、惑星の運動に潜む数学的法則性を発見することによって、宇宙が数学的調和に満ちた世界であることを実感し、神の隠れた意図を明らかにしようとしていた、というのは、科学史研究の蓄積から間違いないようです。
 ケプラーの第3法則が書かれている1619年の著作のタイトルは、『世界の調和』Harmonices mundi なのです。
 ケプラーにとって、惑星運動研究は、宇宙の調和的「美」を示す目的ための手段であった、と解釈することは、十分可能だと思います。
 
 17世紀初頭のケプラーを科学者の代表とするわけにはいきませんが、現代の科学者の中にも、科学的探究が、自らの審美的世界観追究のための手段となっている人物がいる可能性は、否定できないでしょう。
 クーンは、単純に、科学者の活動の目的を「専門的パズルを解くこと」としていますが、そのパズル解きを手段として、「美」的探究を行うことがあり得ます。
 科学者も人間であり、自らの職業が、その職業の目的だけのためになされるわけではないでしょう。職業を通して、何かを掴みたい。それが人間の本性に近いのではないでしょうか。
 
 科学的活動は、人によっては手段であると私は考えます。
 人生において、科学的探究を行っていきたい、と決意したとき、その背後には、何らかの審美的観点が潜んでいた可能性があります。
 この世界の秩序、調和を見出したい。
 こうした欲求が、科学的探究活動の情熱を支えているのではないでしょうか。
 
 もちろん、そうではない人もいるでしょう。人生における実利的目的のために科学者という職業を選択する、ということもあり得ます。
 しかし、自然界に対する人類の科学的探究の長大な歴史を振り返ってみるとき、世界の「美」に対する意識が探究を駆動してきたことは否定できないでしょう。
 このことは、芸術活動と異なるものではありません。
 
 したがって、科学にとっての「美」の位置づけは、再び転換されます。
 科学活動において、「美」的観点は、一見、手段に過ぎないように映りますが、そもそも、科学的探究も手段なのです。宇宙や自然界に秩序や調和といった「美」を見出すという目標のための手段、と見ることもできるのです。
 学問とは本来、「真・善・美」を追究する営みであり、自然科学も例外ではないでしょう。
 それゆえ、「美」の位置づけは、クーンがいうほど「重大な差異」があるとはいえず、むしろ、本質的には両者とも「美」的探究という人類的目標を共有している、といえるのではないでしょうか。
 
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