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作曲と思索の愉しみ

オーケストラ作品の作曲・制作過程や、科学史と音楽史の研究にかかわる記録です。 森さちやの自作曲の公開も行います。 曲と思索を分かち合いたい。

歩く思索と座る思索―自我の思想と無我の思想― 

Posted on 11:45:32

 
 ロダンの「考える人」と、広隆寺や中宮寺の「半跏思惟像(はんかしいぞう)」。
 この両者の対比をもとに、山折哲雄さんが、西洋の「直立歩行」的思索と、東洋の「座の文化」的思索の相違について、考察を展開していました。
 
 今回は、その山折氏の考察の紹介と、その延長上に見える展望を、記してみようと思います。
 
 
 直立歩行と座の文化
 
 土曜日の東京新聞の「生きる」という特集ページは、毎週私が楽しみにしている特集なのですが、6月15日のそのページに掲載されていたのが、山折哲雄さんの「教育を考える 下」という記事でした(朝刊、11面)
 見出しには、“ロダンの像”“「座の文化」再考する時”とあります。
 
 ロダンの「考える人」と、日本の「半跏思惟像」の違いとして、山折氏は、ロダンの像と異なり、後者が姿勢を正しており、それに伴い呼吸を整えていることを指摘しています。
 また、ロダンの像は、思索後には歩き出していくだろうと予想されるのに対し、日本のアジア的座像は、思索後も「ふたたび大地に座る生活に復帰するのではないか」と想像しています。
 さらに、山折氏は、フランスのシトー修道院などでの興味深い経験を語っています。修道士の黙想や経典朗読時の姿勢が人それぞれで、一定していないのだそうです。
「床に座る者、あぐらをかく者、立ったままの者、柱や壁に背をもたせかけている者、じつに多種多様であった」ということです。キリスト教の修道院では、伝統的に、とくに姿勢を正したり呼吸を整えたりすることはないのだそうです。
 それゆえ、「わが国の僧院でお目にかかる雲水たちの姿とは似ても似つかぬ光景だった」と山折氏は感想を述べています。
 ロダンの像は、「考える」という行為に重点が置かれているが、「座る」ということに感心が払われているようには見えない、と山折氏は判断しています。むしろ、西洋の“直立歩行”的思索の象徴と捉えているようです。そして、デカルトの「我思う、故に我あり」と通じているとみています。
 山折氏のこの記事では、最後に、現代の日本社会への批判と提言がなされています。
 日本の社会は、西洋化・近代化の過程で、“直立歩行”的な産業社会の価値観に侵食され、伝統的な“座の文化”の型―「重心の低い大地的な座法の意味」―を忘却してしまったのではないか。教育原理を「読み、書き、座る」へと方向転換し、「そろばん(ゼニ勘定)」の見直しへすべきではないか。
 このように記事を結んでいます。
 
 自我の思想と無我の思想
 
 山折哲雄さんの、「直立歩行」と「座の文化」の対比の考察は、私にとって、示唆に富むものでした。
 この対比は、西洋思想と東洋思想の、「我」に対処する姿勢の違い、と結びついているだろうと見当がつきました。
 
 山折氏も指摘するように、ロダンの「考える人」が思索後に歩き出して世界へと立ち向かう姿勢は、デカルト的な近代的自我の志向性と通じるものがあります。
 積極的で攻撃的な精神。世界の中心に自分がいるという、自我肯定の思想。近代西洋文明による植民地支配や、自然破壊は、この“直立歩行”的思索の必然的成果と理解されます。
 ロダンの像は、バネがエネルギーを蓄えているように、歩行前の心身の充電を行っているようにも見えます。
 デカルトの思索は、個人主義的な内向きの思惟から出発したかもしれませんが、これ以上疑うことのできない「自我」を思索の中心に据えて以降は、外に向けて歩き出します。デカルトの機械論は、結果として、西洋近代文明の自然界に対する征服欲を正当化する役割を果たしたと理解できます。
 修道院の黙想の姿勢に関して統率を取らないのも、個人的な「自我」の思索が重要だからなのでしょう。
 西洋の学問の原点を形成したアリストテレスは、彼の学園リュケイオンで、歩きながら講義したと伝えられています(逍遥学派)
 古代ギリシア時代から、思索の姿勢として、西洋では“直立歩行”的な拡大志向の思索が連綿と引き継がれ、それが「自我」肯定の思想と結びついていったのでしょう。
 
 一方、「座る思索」に関しては、次の松岡正剛さんの言葉を想起しました。
 
「まったく、“坐る”というのは、東洋のおそろしい発見だったとおもう」(『空海の夢』春秋社、p.31)
 
 私は大学院時代にこの文章に接して衝撃を受け、深く納得したのでした。
 松岡氏は、人類進化の歴史において、直立二足歩行の延長上で獲得されてきた、「意識」や「言語」のもつ本源的・致命的問題点を指摘した後、上記の言葉を語っていました。
 山折氏と松岡氏は、おそらく、「座る思索」に関して似た構想をもっていたのでしょう。
 
 両者の考察を私なりに展開してみます。
 仏教における「禅定」とは、闘争性・攻撃性・自己拡大欲などが発せられる特異点である「自我」の虚構性を実感する営み、ともいえます。制御された身体の姿勢と呼吸のもと、「空」や「無我」への覚醒へと導かれます。
 『荘子』の「坐忘」も同様の思想を語っています。
 座って瞑想し、自然と一体となる境地に達し、「我」を忘れるのです。
 東洋の「座る思索」には、進化の過程で、環境に適応し、弱肉強食の生存競争を生き延びるために要請された「自我」の攻撃性・破滅性を諒解し、なだめ、穏やかにし、暴走を防ぐ機能がありました。
 外向きの、「歩く思索」と相性のよい「自我」は、確かに生存には必要なのですが、ほかの人々やほかの生き物との平和的共存にとっては、欠陥がある構築物でした。
 日本人は、自然を全面的に支配したり、自然と対決したりするのを好まず、折り合いをつけて、里山のような景観を育ててきました。
 「自我」を、日本の里山の風景のように、飼いならし、折り合いをつけようとしてきたのが、東洋の「座る思索」であり、「無我」の思想であったのでしょう。
 
 つまり、「座る思索」とは、大局的には、人類進化の“慣性”と“陥穽”を緩和する思想であったのです。
 
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