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作曲と思索の愉しみ

オーケストラ作品の作曲・制作過程や、科学史と音楽史の研究にかかわる記録です。 森さちやの自作曲の公開も行います。 曲と思索を分かち合いたい。

“小乗仏教的”生き方と“大乗仏教的”生き方は相補的(その1) 

Posted on 17:06:47

 
 上記のタイトルは、以前書いたブログ記事<『荘子』大宗師篇「真人」と、斉物論篇「朝三暮四」>の【蛇足1】で、言い訳として使った言葉でした。
 そのブログ記事で語った、「朝三暮四の精神」あるいは「等価性の諒解」の思想が、“小乗仏教的”な、独善的悟りの傾向を有することに対して、上記の「相補的」という言葉を用いて、自己正当化したのでした。
 
 今回は、この「相補的」という言明が、それほど見当外れではない、ということを示してみたいと思います。
 
 なお、ここでは、“小乗仏教的”生き方、という表現に、自己の精神性の向上のみならず、学問や芸術における自己の世界の深化や、自分の身体能力の開発など、個人的成長を志す姿勢全般を含ませることにします。
 また、“大乗仏教的”生き方、という表現に、仏教的実践行為のみならず、介護やボランティアなどの社会貢献や、脱原発運動や人権問題などの社会問題に取り組むこと等を含ませることにします。つまり、“大乗仏教的”生き方という言葉で、他者や社会に対する配慮を個人の利害よりも重視する生き方全般を表現することにします。
 
 
 「布施」の構造
 
 今回(その1)では、“大乗仏教的”生き方を深めるには、“小乗仏教的”個人的成長が不可欠である、という具体例を提示してみることにします。
 
 “大乗仏教的”行為として、まず思いつくのが、「布施」です。
 大乗仏教の実践徳目、六波羅蜜の第一に挙げられている、利他的行為の典型です。
 「布施」とは、現象的にみれば、財産を喜捨したり、席や社会的地位を譲ったり、笑顔で優しく語りかけたり、といったことでしょう。
 ところが、「布施」では、利他的行為だけでなく、それに伴う精神面の動きを重視します。その行為とともに、所有欲や執着を同時に手放す、という意味合いもあります。
 さらに、『新・佛教辞典』によれば、「ただ名利のための布施は不浄布施としてしりぞけられる」(中村元監修、誠信書房、p.446)と説明されているように、「布施」に自己満足や、見栄などが伴わない在り方が理想です。そして、見返りを期待しないでできるかどうかもポイントでしょう。
 このことは、実際にはかなり難しいことです。たとえば、電車の中で座席を譲る際、自分の心の動きを観察してみると、自分のプライドをくすぐるさまざまな思念が渦巻いていることがわかります。あるいは、今ここでこのブログ記事を書いていることも、見方によっては「布施」もどきかもしれませんが、ひょっとすると“不浄布施”になってしまっているかもしれない。うーむ……
 「布施」とは、見返りを期待せずに行う、自我の膨張を伴わない贈与、といえましょう。
 
 ということは、十全なる「布施」を行うためには、個人の精神的成熟が前提となっているわけです。そして、「布施」の行為により、執着からの解放という、“小乗仏教的”達成にもつながる可能性があります。
 ここでは、個人の精神的成長と、利他的行為とが、密接不可分な関係になっていることがわかります。
 
 社会問題への取り組みと、個人的成長
 
 「布施」の構造と似た構図を、社会問題への取り組みにも見てとることができます。
 
 竹端寛さんは、スルメコラムの記事<続 わかりやすく書くことの難しさ>で、ご自身の著作『枠組み外しの旅』(青灯社)を書いた目的と、あらすじを語っています。
 それを読んだ際、私は、「布施」の構造と似ている、と再認識したのでした。
 以下、そのブログ記事から抜粋します。
 
<この本は何を言おうとしているのか(目的)>
この本を書き終えて、一番伝えたいこと。それは「法律や制度は変えることができる。でも、本当に何かを変えたい、と思ったら、まずは自分が変わらなければならない」ということです。
 
<なぜ書こうとしたのか(理由)>
……国の法律や政策を本当に変えたい、と思うのなら、まずはみんなが口にする「どうせ」「しかたない」という「あきらめ」の言葉を、どうしたら減らすことができるのか、を考えなければならない……どうしたら「どうせ」「しかたない」という「あきらめ」から「自由」になり、心が楽になるのか……心を不自由にする「枠組み」をどう「外す」ことができるか。その「枠」を「外す」と、どんな新しい「旅」がはじまるのか。
 
<どんな内容が書かれているのか(あらすじ)>
[見出しのみ抜き出します]
【①自分の「思い込み」が、世の中が変わらない最大の理由】
【②僕とあなたが「学びあう」話し合いの中から、学びの「うずまき」ができる】
【③学びの「うずまき」が、「どうせ」「しかなたい」を超える力を持つ】
【④一人一人の「思い込み」という「枠」を「外す」と、「自由」な世界が見える】
【⑤「思い込み」を外して、「学びあう」中で、一人一人の「個性化」が進む。そして、自分が変わることによって、社会も変わり始める】
 
[興味ある方は、ぜひ、スルメコラムのその記事をご覧下さい。あるいは、『枠組み外しの旅』をお読み下さい]
 
 竹端さんの構想の軸は、社会を変えるには、個人の意識変容が出発点となる、ということでしょう。
 
 社会問題に関わる人々の中から、たとえば、原子力ムラや医学ムラ(@内海聡)、学閥や霞ヶ関といった体制的価値観に絡め取られてしまう人が続出してしまう根本原因が、個人の精神の未成熟にある、と私も感じています。
 自己を変容させたり、自分の領域内の何物かを捨てたりする覚悟がない限り、社会問題に対する有効な活力を発揮できないのではないか、と思うことがあります。自分の社会的地位への執着や、知らずのうちに身に纏うようになった固定観念に縛られて、自在な思考や判断が曇らされ、行動が既存の枠組内のパターンに回収されてしまう。
 言い換えれば、“大乗仏教的”活動を実り豊かなものにするには、“小乗仏教的”な個人の成熟が要請される、ということです。
 そしておそらく、その社会的活動―「布施」としての活動―を通じて、さらに個人の精神は変容を遂げていくことでしょう。
 したがって、ここでも、利他的社会的営為と、個人の精神的成熟とは、密接不可分な関係にあることがわかります。
 
 今回(その1)では、“大乗仏教的”生き方を深めるには、“小乗仏教的”個人的成長が不可欠である、という具体例をふたつ、提示してみました。
 (その2)では、“小乗仏教的”探求が、“大乗仏教的”にもよりよく生きることにつながる事例を提示する予定です。
 
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