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作曲と思索の愉しみ

オーケストラ作品の作曲・制作過程や、科学史と音楽史の研究にかかわる記録です。 森さちやの自作曲の公開も行います。 曲と思索を分かち合いたい。

バッハとモーツァルトの対比と、18世紀の発生学論争 

Posted on 15:48:35

 
 前回のブログ記事、<バッハとモーツァルト、二人の宗教的感覚をめぐって>では、二人の音楽から受ける宗教的印象に関して、バッハが「受動的」、モーツァルトが「能動的」という対比を提示しました。
 そして、その背後には、通奏低音の消失と和声の自律的運動力の獲得という、18世紀後半の音楽史上の地殻変動があることを指摘しました。
 
 今回はそれに関連して、同じ時代に進行していた、発生学における<前成説・後成説論争>に着目して、類似の生命観の対比が見られることを示してみようと思います。

 
 前成説・後成説論争について、時代の趨勢
 
 この論争は、動物の個体発生過程をめぐって、17・18世紀を通じてなされていた論争でした。
 前成説とは、成体のミニチュアが発生の初期にすでにできあがっていて、発生はそれが展開・拡大されてくる過程であるとする説です。もう一方の後成説は、個体の器官は発生の過程で徐々に形成され、単純な胚が複雑に分化していく、という説です。
前成説・後成説やその背景となる自然観などについては、
クララ・ピント-コレイア、佐藤恵子訳『イヴの卵』(白揚社、2003年)、
フランソワ・ジャコブ、島原武・松井喜三訳『生命の論理』(みすず書房、1977)、pp.52-74、を参照しています。
 
 前成説は18世紀においては「先在説(入れ籠説)」と呼ばれる独特の理論形態-生物はすべて神による天地創造の時点で創られており、それらが入れ籠式に次々にはめ込まれているという説-となり、キリスト教の創造論と結びついていきました。
 前成説は、当時の自然神学的な世界認識や、生き物を受動的な機械と看做す生命観と調和的な学説だったのです。
 また前成説には、精原説と卵原説がありましたが、18世紀には卵原説が有力でした。
 現在からみれば明らかに誤りである前成説も、必ずしも思弁的に構築されただけのものではありません。当時のさまざまな自然観察()にも基づいて主張された説でした。
 
たとえば、ニワトリの発生の初期においても、顕微鏡でみると、かつては無構造と思われていたものにも器官の構造が観察されたり(マルピーギ、1672)、精子を観察し、精子の運動能力から推察して精原説を唱えたり(レーウェンフーク、1679)、アリマキの単為発生(精子不要)の観察事実の基づいて卵原説を支持したり(ボネ、1745)、など。
中村禎里『生物学の歴史』(河出書房新社、1983)、pp.101-106、参照。
 
 18世紀の前半は、後成説よりも、「先在説」としての前成説が優勢でした。ところが、18世紀中葉から後半にかけて、有力な後成説論者が次々に登場し、形成は逆転していきました。
 モーペルテュイ、ビュフォン、ヴォルフ、ブルーメンバッハらが、子供が両親のどちらにも似ることや、再生現象や、器官形成中の構造変化などを主な論拠として、後成説を主張していったのです。
 彼らが、受動機械論的自然観を排し、自然の能動性、あるいは生命に内在する形成力を認める傾向にあったのは、言うまでもありません。
 
 自然神学的視点と結びついた、受動機械論的自然観と相性の良かった前成説が、18世紀後半には下火になっていきました。
 この要因としてはもちろん、発生過程の観察精度の向上や、実験的手法の導入といった、発生学自体の内的進歩も無視できませんが、自然観の大きな変遷の波及も軽視できないでしょう。自然に内在する活力・自律性への確信がでてきたからこそ、後成説を積極的に支持しえたのです。また逆に、時代の流れである「神の棚上げ」過程の余波を受けて、先在説も軽視されるようになっていったと思われます。
 このように、自然観の変遷過程と歩調を合わせるように、前成説・後成説論争は推移していったのでした。
 
 当時は、発生過程の一般理論が存在していなかったこともあり、個別の観察事例はさまざまに解釈可能でした。論争期には、背後の自然観の影響が表面に現れやすいですが、この論争でもそれが言えそうです。この論争に一応の決着がつくのは、19世紀前半の、K・ベーアの胚葉説(1828)によって初期発生過程の一般理論が確立した時点と見なされています。
 
 18世紀における生命観の変遷
 
 前成説が衰退し、後成説が主流の見解となっていく動向は、当時の生命科学の全般的な生命観の変遷と連動していました。
 生物機械論の内実の変容や、自然発生説論争、分類理念の転換、これらに着目しても、同様の変動を読み取れます(詳しくは、論文「18世紀生命科学と西洋古典音楽における生命観・音楽観の変遷の並行性―受動から能動へ―」『生物学史研究』(No.70, 2002年)所収、の第4節で論じています)。
 
 18世紀における生命観の変遷の大局は、以下のようにまとめられるでしょう。
 神が設定した初期条件に従って、自然は受動的に展開していくという自然観は衰退していきました。それに替って、秩序は自然や生命自体が有し、内在する活力や原理によって自律的に生命は発展していく、という汎神論的自然観が主流となっていきました。
 つまり、啓蒙思想における「神の棚上げ」と連動する「運動原理の内在化」が、時代の潮流となっていたのです。そして、全体としての時代の大きな趨勢は、<受動から能動へ>と要約できるでしょう。
 
 バッハとモーツァルト、前成説と後成説
 
 さて、バッハの通奏低音に支配される音楽は、前成説に似ています。
 バッハにとって、通奏低音とは、神の秩序の現れでした前回のブログ記事参照)。神によって与えられた通奏低音に導かれて、いわば受動的に進行していく音楽。
 前成説は、発生過程を、神によって与えられた初期構造が本質的変更を受けずに、拡大・展開されていく過程、とみなしていました。
 18世紀前半の、バッハの音楽と前成説には、一神論的神に付与された初期条件に導かれて進行していく運動、という共通性を見て取れます。
 
 一方、モーツァルトのピアノ協奏曲や交響曲は、後成説に似ています。
 精霊に満ちた豊穣なる存在世界と同化したようなモーツァルトの音楽は、和声構造の基盤がより内在化されており、自律的な和声の運動力が備わっているといえます前回のブログ記事参照)
 後成説は、自然界や生命に内在する活力・自律性への確信に支えられて、発生過程を新たな構造の生成・創発過程、と理解していました。
 18世紀後半の、モーツァルトの音楽と後成説には、汎神論的自然観に支えられた、内在的・自律的運動力、という共通性があります。
 
 このように、18世紀のバロック音楽と古典派を代表する二人の作曲家の対比は、当時の発生学論争の対比と並行的に理解することができるのです。
 そして、この並行性はもちろん偶然の産物ではなく、歴史的・文化的時代背景が共有されているために生じた、必然的事態と考えられます。
 この時代背景に関しては、後に、機会を見て説明を加える予定です。
 
 まとめ
 
 
バッハからモーツァルトへ。
 前成説から後成説へ。
 一神論から汎神論へ。
 受動から能動へ。

 

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バッハとモーツァルの両方が可能だなんて!

僭越ながら、わたくしもバッハとモーツァルトの偉大な(と言いたくなる)違いこそ素晴らしい、と思っております。まさに、「不可知の何様」の存在というか、存在全体が「不可知の何様」であるかのような思いに持って行かれます。
この二つの両方が可能であるという、存在の不可思議さがまさに「不可知の何様」という概念、観念を必然化します。
 それについては、下記の長大な文の中にも触れております。
エコ人間でもある哲学者八木の「生態系三部作」を相手取ったものですが、あなた様の視点にもまとわりついてくる議論かもしれません。
 
とにかく、人の脳というものは(|宇宙人がおれば彼らのそれも含めて当然ですが)この宇宙において、もっとも高密度の秩序部分であろうし、ですからこうしてですね、おたがいそれを関係付け相生かし愛するなど、最高の善的行為であり、正義云々をはじめっから超脱した営意かと思われます。
まことにこの出会い、感謝に堪えません。いかがでしょうか?


「われ、敵を愛する
のみならず、
なおかつ
何時の友を憎む」
(その心は、「大切なものを無視するのが一番よくない!」)

あなた様方のようなご関心とご造詣ある方には、
下記の拙作をご紹介せずにはおれません。

私の名前でもあるロクリア旋法(音階)は
二重螺旋的であり、なおかつ、メビウスの輪的
深層構造を持っておりますゆえ-

ロクリアン哲学創建!
哲学は動詞だ!
真の「哲学する」を世に問う、
哲学の祖、パルメニデス以来の挑戦
「八木哲学*の生体解剖からロクリアン哲学へ」
(*八木雄二氏の「生態系三部作」に対しての批評文)
全部95ページ、堂々公開です。
2015年8月29日に
ホームページに(「ロクリアン」ですぐ出ます)アップしました。

作曲家、ロクリアン正岡拝

ロクリアン正岡 | URL | #-

2015/09/05 17:09 * edit *

コメントをありがとうございました。

 
 ロクリアン正岡様からのコメント、大変うれしく思いました。
 非常に刺激になりました。
 ありがとうございます。
 
 ≪ロクリアン正岡のホームページ≫を拝見しました。
 短時間では到底全貌のつかめないような関心領域の幅広さと、射程の奥深さがありそうだと感じました。
 追々、じっくりと時間をかけて、ロクリアン様の世界を堪能していきたいと思います。 
 作曲活動・音楽活動は、生命や人類の進化、文明化の諸相と深いかかわりがある、と私は確信を持っていますが、この点に関して、ロクリアン様と思考の枠組みを共有しているように感じました。
 
 八木雄二氏の「生態系三部作」と、それに対する批評を紹介してくださり、ありがとうございます。
 大変興味を持ちました。
 私も、八木氏の著作と格闘してみるつもりです。
 ロクリアン様の批評文の中で、印象に残った個所がいくつもありました。
 生態系と文明の二者択一ではなく、既存の文明的なものに対して、「ロクリアン」的な野生的なものを参入せしめて、「全体の豊穣化」を図る方向性。
 また、「個性とは異質性」のことだ、という指摘。
 実に、包容力のある精神が発露しているように感じました。
 
 今後もよろしくお願いします。

森さちや | URL | #T2ep3i7I

2015/09/08 09:52 * edit *

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