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作曲と思索の愉しみ

オーケストラ作品の作曲・制作過程や、科学史と音楽史の研究にかかわる記録です。 森さちやの自作曲の公開も行います。 曲と思索を分かち合いたい。

バッハとモーツァルト、二人の宗教的感覚をめぐって 

Posted on 18:06:22

 
 クラシック音楽の作曲家の中でも、とりわけこの二人の作品を、私は好んで聴いてきました。そして、おそらく、私の管弦楽曲の創作に対して最も深い影響を及ぼしてきたのが、この二人であろうと感じています。
 
 今回は、まず、礒山雅さんの著作で語られていた、バッハとモーツァルトの作品から受ける宗教的感覚に関する批評を紹介します。
 続いて、その批評に共感した私が、それをもとに展開していった考察を、書き留めておこうと思います。
 
 二人の違いについての磯山氏の批評
 
 礒山雅さんは、『モーツァルト=二つの顔』の第9章「モーツァルトとバッハ」で、二人の音楽の本質的違いを、「イメージ的私論」と断った上で論じています(講談社、2000年)
 
 まず、バッハを、人生相談に対して真剣に誠実に応じてくれる聖職者に喩える一方、モーツァルトは、「いっしょに楽しみ、いっしょにエキサイトする相手」とみています。しかし、モーツァルトも、「存在の問題は、バッハとおなじか、それ以上にシリアスに直観されている」と言っています(p.216)。ただ、深刻さを好まないダンディズムがモーツァルトにはある、ということです。
 それに続いて、二人の音楽から受ける「神」の感覚についての印象を、礒山さんは対比的に語っています。
 
「バッハは……彼なりの確信でとらえられた、厳然たる存在の神にたいして、音楽を通じて問いかけ、呼びかけ、懺悔し、帰依している」(p.217)
 
 礒山さんはまた、≪マタイ受難曲≫を例に挙げ、神の慈愛の流出の錯覚を抱く、とも言っています。
 それに対し、
 
「モーツァルトの本質は、飛翔であり、疾走である……そのとき、モーツァルトの音楽が神的性質を帯びることは、確かである……むしろそれは、神的というより、霊的と呼んだほうがいいであろう。善の霊、悪の霊が倫理的規範を超えて戯れ、迅速に入れ替わるのが、モーツァルトの世界である」(p.217-218)
 
 この対比を、私の言葉で要約しなおすと、バッハの作品は、超越的神との対話と祈りの音楽であり、モーツァルトの楽曲は、霊的存在と一体化する音楽、ということになろうかと思います。
 もちろん、二人の膨大なさまざまなジャンルの音楽から受ける印象は多様で、宗教的感触の濃淡には相当幅があるのも確かですが、「神」や「霊」と言う言葉を強く連想するタイプの曲に関しては、上述の対比は、私には実に納得のいくものでした。
 
 時代の変遷との照応
 ―通奏低音の喪失とのかかわり―
 
 さて、ここから先は、この礒山さんの批評に触発された、私の考察を語っていきます。
 
 まず、二人の宗教意識は、バッハが「一神論」的、モーツァルトは「汎神論」的、といえるでしょう。
 バッハはキリスト教の唯一の神と向かい合っています。それに対し、モーツァルトは、精霊に満ちた豊穣なる存在世界と同化しています。
 また、聖なるものに対して、相対的にみれば、バッハはより受動的、モーツァルトはより能動的、と言えそうです。
 バッハは、超越的・絶対的神から、霊感を受け取っている。モーツァルトは、自らが精霊と化して、存在世界と共鳴する音楽を紡ぎ出している。対比的にいえば、こんな感触でしょうか。
 
 18世紀前半のバロック時代後期に活躍したバッハと、18世紀後半の古典派の時代を生きたモーツァルト。上記の対比は、18世紀における音楽の変遷のいくつかの要素と対応しているように、私には思われます。
 古典派時代に生じた音楽史上の主な変動である、通奏低音の消失、音律の変化、ソナタ形式の完成、といった事柄は、音楽がより強い能動性を獲得することに複合的に作用した、と私は考えています(詳しくは、論文「18世紀生命科学と西洋古典音楽における生命観・音楽観の変遷の並行性―受動から能動へ―」『生物学史研究』(No.70, 2002年)所収、の第3節で論じています)
 とりわけ、鍵となったのが、「通奏低音の消失」という事態です。
 
 通奏低音に対して、バッハは、次のような注目すべき見解を有していました。
 通奏低音の目的は、「神の栄光を反映させ、心情の楽しみを与えること」である、とバッハは考えていました。そして、通奏低音は人間の考案ではなく、神の創造秩序の一部とみなしていました(ヴァルター・ブランケンブルグ、植村耕三訳「バッハと啓蒙主義」、角倉一朗編『バッハ叢書9・バッハの世界』(白水社、1978年)所収、p.243)
 つまり、通奏低音に、「神の秩序」を感じていたのです。
 バッハの見解を推し量ると、音楽は神の秩序の支配のもとに進行していく受動的運動であり、通奏低音こそが、その秩序の源泉、ということになりましょう。
 
ところで、「通奏低音の消失」とは、主に和音の根音を演奏する低音パートが消失した、ということではありません。通奏低音とは、ルネサンス期に発展を遂げたポリフォニー様式から、古典派時代以降のホモフォニーへの移行期にいわば必然的に出現した、和声上の演奏習慣であり、音楽書法でありました。
 バロック期には、多声部の織りなす複旋律よりも、旋律としての動きを単純で明確な一本の主旋律に限定する傾向が優勢になっていきました。その際、旋律を支える他の声部については、響きのかなめである低声部を残し、基本骨格としては2声の対位法と見なせる構造となりました。
 そして、チェンバロなどの通奏低音楽器の奏者は、上を歌う旋律線とバスとの間におかれる和音を、楽譜の下に書かれた数字をもとに、補填していたのです。このバス声部は休みなく演奏されました(通奏)。したがって、通奏低音の考え方には、旋律の伴奏として最低音の外声部を重視する理念が含まれています。
 
 さて、古典派時代、18世紀後半に入ると、調性に支えられた機能和声が広まっていき、内声部の充実が図られるとともに、外声部重視の通奏低音は衰退していきました。内声部の開発は、ロマン派にも引き継がれます。
 演奏習慣としては、通奏低音は1800年頃まで続いていたらしいですが、書法上からは、つまり作曲家の楽譜上からは、1770年代に消滅したようです。
 この時代に、和声構造の基盤が、より内在化していった、といえるでしょう。外側から支配され、他律的で機械的に響く感もあるバロック音楽から、自律的な和声の運動力が獲得されて、古典派やロマン派への道が拓かれていったのでした。
 モーツァルトの後期の交響曲(40番や41番など)は、和声の自律的運動力を強く感じさせる代表的曲種でしょう。
 
 このような、通奏低音の消失に伴う自律的な和声の運動力の獲得という、音楽史上の地殻変動が、バッハとモーツァルトの音楽の印象に違いを生じさせる主要因なのではないでしょうか。
 そして、秩序が通奏低音に一元的に支配されているバロック音楽と、充実した内声部によって複合的に、有機的に和声が生成されてくる古典派の音楽は、宗教的感覚としては、「一神論」と「汎神論」との対比に照応することになるわけです。
 
 したがって、二人の音楽から受ける宗教的感覚の違いは、通奏低音の有無、和声の自立性、という様式の違いから、ある程度は説明できる、ということです。
 ただし、もちろん、二人の内部に宿っていたであろう宗教的感受性に相違があったでしょうし、その相違が様式を通じて拡張されてきた、という面もあるでしょう。
 しかし、それにもかかわらず、二人がある意味では時代の子であった、ということは認めざるを得ないように思われます。
 個人的な宗教的感受性の違いにしても、モーツァルトはバッハとは異なり、啓蒙思想の余波をかなり強く受けており、その影響を軽視することはできないでしょう。
 バロック後期と、古典派を代表するこの二人の作曲家は、その時代の変遷に照応した宗教意識をおそらくは持っており、それらに対応した様式の音楽を創作し、その結果、異なる宗教的感覚を二人の音楽が与えることになった、と理解できるのではないでしょうか。
 
 まとめ
 
 バッハからモーツァルトへ。
 宗教的意識は、一神論から汎神論へ。
 受動から能動へ。
 時代背景は、通奏低音の消失と、和声の自律的運動力の獲得。
 
 この考察は、さまざまな視点から展開できるテーマなので、今後、続編を提示することになると思います。
 
続編1:バッハとモーツァルトの対比と、18世紀の発生学論争
 
を公開しました(6/9)。こちらもご覧下さい。
  
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