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作曲と思索の愉しみ

オーケストラ作品の作曲・制作過程や、科学史と音楽史の研究にかかわる記録です。 森さちやの自作曲の公開も行います。 曲と思索を分かち合いたい。

『荘子』大宗師篇「真人」と、斉物論篇「朝三暮四」―世間との折り合い― 

Posted on 15:30:43

 
 老荘思想の「無為自然」を体現した理想的人物として、『荘子』では、「真人」がしばしば登場します。
 とりわけ、大宗師篇では、かなりていねいに、「真人」を描写しています。
 
 大宗師篇の「真人」の記述をめぐって
 
 大宗師篇を読んでみると、次のふたつのポイントに力点が置かれて記述されているのがわかります。
 
 A.真人の、生死や自然に対する境地
 B.真人の風貌や、真人の超人的能力
 
 ところが、この2点だけでなく、もう1点、興味をそそる論点が散見されます。
 
 C.真人の、俗世間との折り合いのつけ方
 
 このテーマも、大宗師篇の無視できない論点になっている、と私は判断しました。
(こんなことを書くと、すぐさま、「真人がそんなことを気に掛けるはずがないだろう」といった反論がきそうです。たぶんそうでしょう。でも、私のような、真人の境地から程遠い修行中の人間にとって、そのように読める、ということなのです)
 
 さて、論点Cに対応する、大宗師篇の文章を、現代語訳で引用してみます。
 (金谷治訳注『荘子 第一冊』岩波文庫より、pp.170-179)
 
「逆境のときでもむりに逆らわず、栄達のときでもかくべつ勇みたたず、…たとえ過失があってもくよくよと後悔せず、うまくいっても自分でうぬぼれることがない」
 
 また、この文章と同趣旨の記述が、「聖人」を主語にして、語られています。
 
 さらに、次のような人は、聖人・賢人・君子・士人ではない、といっています。
 
「外界の事物を思いどおりにしようなどと念願する」「自然の流れを時間で区切っていく」「利害にとらわれて、それが同じものであることに気づかない」「世間的な名声のためにあくせくして、自己を喪失している」
 
 このような、世間への対処の仕方は、俗世間の価値観に対する反対、否定、というよりも、むしろ、
 
 ―等価性の諒解―
 
 と名づけられるような思想ではないかと私は思います。
(栄達や利益や名声を否定しているわけではなく、それらに対して囚われてしまう精神の在り方を問題にしているのです)
 
 どのような出来事も「等価」であり、それゆえ、作為をさしはさむ必要はない。逆境も栄達も「等価」である。問題なのは、人為であり、「等価」への無理解であり、そのために生ずる自己喪失である。
 
 このような内容の思想が、大宗師篇の「真人」の記述に伏在している、と私は読み取りました。
 そして、これは明らかに、「無為自然」の理想と調和的な考え方といえます。
 等価性を諒解すれば、自ずと作為はなくなり、「無為自然」の境地に近づくであろうからです。
 
 したがって、「等価性の諒解」の思想は、『荘子』において枢要な位置を占めるのではないか、と私は考えるようになりました。
 
 この観点から、斉物論篇の有名な話、「朝三暮四」を読み直してみると、この故事の奥行きが見えてきます。
 
 斉物論篇「朝三暮四」の精神
 
 まず、「朝三暮四」のストーリーを確認しておきます。
 
 猿飼いの親方がトチの実を分け与えるのに、「朝3つにして夕方4つにしよう」といったところ、猿どもはみな怒った。「それでは朝4つにして夕方3つにしよう」といったところ、猿どもはみな悦んだという。(前出の岩波文庫より、p.61)
 
 故事となった有名な話です。
 では、この話は、『荘子』斉物論篇の文脈においてどう位置づけられているのでしょうか。
 この前後の文章の現代語訳を引用します。
 
「あれこれ精神をつかれさせて同じことをくりかえしながら、それが同じだということを知らないでいる。それを朝三と呼ぶ」(p.61)
 
「表現も実質も変わらないのに、それでいて喜びや怒りの感情が働くことになった…聖人は善し悪しの分別知を調和させて、自然の平衡[つまり万物斉同の道理]に休息する。そうした境地を両行というのだ」(p.61、[]内は金谷)
 
 これらの文章から、「朝三暮四」で荘子が言いたいことは、「等価性に対する無理解」と、「それに起因する精神や感情の動きの問題」であることがわかります。
 そして、理想とすべき境地を、「自然の平衡(原語は「天鈞」)」「両行」と表現しています。
 
 さて、「朝三暮四」の話の前後のこのような文脈から判断して、ここでも“俗世間との折り合いのつけ方”についてのヒントが語られているように、私は感じました。
 大宗師篇の真人への考察から得られた「等価性の諒解」の思想と、そっくりの考え方が提示されているのではないでしょうか。
 さまざまな出来事のあいだの「等価性」が諒解されれば、精神の囚われから解放され、「無為自然」の境地に近づく、という構図です。
 卑俗な言葉で言い換えれば、「結局はどっちにしろ同じことだから、無理せず気楽にゆったり自然体で生きよう」といったところでしょうか。
 
【蛇足1】「大乗仏教的生き方」からの批判に対して
 
 「朝三暮四の精神」あるいは「等価性の諒解」の思想に対して、次のような批判が予想されます(私の内部からも聞こえてきます)
 すなわち、「こうした考え方は、さまざまな社会問題の存在を容認したり、軽視したりする姿勢につながるのではないか」という反論です。言い換えれば、“小乗仏教的”な、個人の精神的達成のみを重視する姿勢なのではないか、という“大乗仏教的”生き方からの批判です。
(ここでは、“大乗仏教的”生き方という言葉で、他者や社会に対する配慮を重視する生き方全般を表現しました)
 
 予想されるこうした批判に対しては、とりあえず、「“小乗仏教的”生き方と、“大乗仏教的”生き方とは、相補的である」と答えておきます。
 両者とも、人間個人と社会の成熟にとって、必須であると考えています。
 
 今回は詳細には立ち入りませんが、いずれ機会を見て、このテーマを論じてみたいと思います。
 
【蛇足2】ドン・ファン―カスタネダの「管理された愚かさ」
 
 「管理された愚かさ」とは、カスタネダのドン・ファン・シリーズの2冊目、『呪術の体験』に出てくる考え方です(カルロス・カスタネダ、真崎義博訳『呪術の体験』二見書房、pp.100-117)
 この考え方も、世間に対する知者の姿勢を言い表したもので、「等価性の諒解」の思想と内容的に近いのではないかと思い、ここで紹介しておきます。
 
※このシリーズは、ヤキ・インディアンの呪術師ドン・ファンと、弟子のカスタネダがスペイン語で交わした会話をもとに、カスタネダが書いた英文の著作を、日本語訳したものです。それゆえ、どこまでが誰の考えなのか、微妙なニュアンスはどうなのか、といったことは正確にはわかりません。私(森)が、このように把握した、という程度に受け取って下さい。
 
 知者は、生活全般に、「管理された愚かさ」を使う、とドン・ファンは言います。その前提となる、世界認識は、次の如くです。
 
「あらゆるものが平等だ…たとえばわしの行動がお前のより大事だとか、ある物が他の物より本質的だとかは言えないんだ」
「知者には名誉も尊厳も家族も名前も故郷もありはせんのだ。あるのは生きるべき生活だけだ」
 
 そして、知者は普通の人と同じように見えるが、違う点が、「生活の愚かさが管理されている」ところだ、とドン・ファンは言います。
 
「他のことより重要なことはありはせんのに、知者はまるでそれが自分にとって大事であるかのように行動することを選ぶんだ…彼は行動をし終えると静かに引きこもるし、その行動が善だったか悪だったかとか、うまくいったかいかなかったかなんてことは彼にとっちゃ関心のないことなんだ」
「わしには成功も敗北も空虚さもない。すべてが充実しとるし平等なんだ」
 
 私の言葉でまとめ直してみます。
 
 知者は「等価性」を諒解している。その諒解のもとで、一見、愚者のような日常生活全般を管理している。そこには、精神の囚われが生じる余地はない。
 
 ここでも、「等価性の諒解」が精神の自由・解放と結びついている、という構図が見て取れます。
 『荘子』の「朝三暮四の精神」に近い考え方ではありませんか。
 
※「管理された愚かさ」に関しては、真木悠介氏が『気流の鳴る音』(ちくま学芸文庫)の中で、納得のいく詳細な解説をしています。ご参照下さい。
 
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