04 « 1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31. » 06

作曲と思索の愉しみ

オーケストラ作品の作曲・制作過程や、科学史と音楽史の研究にかかわる記録です。 森さちやの自作曲の公開も行います。 曲と思索を分かち合いたい。

論文「ラマルクとベートーヴェン」の要旨と本文(その1) 

Posted on 13:02:29


 音楽史と科学史の間には、歴史の展開の仕方において、顕著な類似性・並行性がみられる、と確信しています。
 音楽も科学も、それぞれの様式で、世界を探究・表現しようとしている、という共通性があります。それだけでなく、両者ともに、西洋社会の社会的・文化的変遷の影響を同じように受けている、という点も、類似性・並行性の現われに深くかかわっているでしょう。
 
 さて、この論文は、1800年頃に活躍した二人、生物学者(分類学者・進化論者)ラマルクと、作曲家ベートーヴェンのそれぞれの著作・作品が、構造的に実によく似ている、ということを示した論考です。
 
 この論文の結論は、以下の通りです。
 

 ラマルクの『動物哲学』と、ベートーヴェンの≪運命≫、この両者はともに、秩序的世界の枠組の中に、発展的世界観を盛り込んだ作品である。これらの代表作に見られる類似性は、当時の科学史と音楽史の並行性を象徴する代表例である。


(森幸也「ラマルクとベートーヴェン」『生物学史研究』No.75 に所収)

 
 このブログでは、3回に分けて、この論文の要旨を紹介していきます。
 また、付録として、対応する論文の文章を、掲載しておきます。
 興味ある方は、ご笑覧下さい。


 
要旨
 

 1.はじめに
 

 この論文では、ラマルクの主著である『動物哲学』(1809年)と、ベートーヴェンの代表的交響曲、第5番≪運命≫(1808年)との間に見られる照応関係を調べていきます。
 
 
2.時代の刻印の類似性
 
 18世紀末から19世紀初頭にかけての動乱期のヨーロッパ社会を生きた、ラマルクとベートーヴェンは、活躍の場こそ異なるものの、同時代の知的雰囲気―啓蒙思想やフランス革命の理念など―を共有し、社会の変動の影響を受けていました。
 
 ただし、ラマルクが引き継いだ啓蒙主義の理念は、前時代的内容を含んだものでありましたし、ベートーヴェンは、旧来の秩序の枠内から新しい理想のあり方を望むという姿勢をもっていました。その意味では、二人とも二面的・両義的な影響を被っていた、といえるでしょう。
 
 
 (その2)に続く。

 
論文の対応する部分

 
1.はじめに
 

 科学も音楽も、「世界を探究し表現する」という本質的動機を共有している、と筆者は考える(1)。科学の歴史と音楽の歴史との間に、往々にして、ある種の対応関係や並行進化的な変遷が見られることがあるように思われるが、その大きな理由のひとつが、この動機の共有であろう。
 ただし、対応の理由はそれだけではない。特に、西洋の自然科学と西洋古典音楽の場合、両者が歴史的伝統や社会的背景を共有していることも、見逃せない一因であろう。
 それぞれの分野の基本的発想の主要な源泉はギリシアにある。そして両者とも、ギリシア時代に形成された諸類型がキリスト教的精神の洗礼を受けて、変容を被ってきた。古代・中世だけでなく、ルネサンス期や、近代以降も、西洋思想の変遷や社会の変化の影響を受けつつ発展してきた事情は変わらない。そもそもこのことは、西洋の文化的歴史のどの領野においてもある程度認められることである。それゆえ、問題としている両分野の並行性についても、歴史的伝統や社会的背景の共有は、軽視できない要因とみなせよう。
 そして、「宇宙・自然・生命を探究し、理解したい」という衝動が、科学の歴史を駆動してきた主要な原動力であったのと同様に、音楽もまた、宇宙や自然や生命(音楽の場合特に人間)を探究し、それらを表現しようとする動機を本源的に含んでいる。
 このような構造的必然性のため、両者の表現形態に相似的様相が出現することは、十分に考えられるのである(2)
                                       *
 さて、この小論では、上記の観点に基づいて、科学史と音楽史の間に見られる興味深い対応の一事例を紹介したい。それは、J.B.ラマルク(Jean Baptiste Pierre Antoine de Monet de Lamarck,1744-1829)の『動物哲学』と、L.v.ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven,1770-1827)の交響曲第5番ハ短調作品67≪運命≫との間に見られる照応関係である。
 『動物哲学』は、ラマルクの主著であり、進化の学説が初めて体系的に記述された著作として、一般にはみなされている。1809年8月に出版され、当時のフランスではあまり認められなかったものの、19世紀の生物学の動向を大きく左右した書物であった。
 もう一方の≪運命≫は、第9番と並んで、ベートーヴェンの交響曲の代表的作品である。もちろん、彼の代表作というだけでなく、古典派からロマン派への移行期における、音楽史上の代表的交響曲でもある。作曲の完成は1808年の早い時期、初演は1808年12月である(3)。ベートーヴェンの一連の交響曲は、19世紀のロマン派の音楽の趨勢に大きな影響を及ぼした。
 この二つの作品は、ただ初版や初演の時期が近いだけではなく、同様の時代の刻印を受けた、類似の世界観を包含している作品のように、筆者には思われる。さらに、後の時代の生物学者や作曲家が、これらの作品や二人から汲み取った事柄には、同型的な並行性があるように思われる。こうした内容を、この小論では検討していきたい。
 ラマルクは、一般には進化論の先駆者として知られているが、本来の専門は、無脊椎動物の分類研究であり、彼の最大の目標は、動物の自然分類の体系を確立することにあった(4)。ラマルクの進化の学説は、その目的のための手段として、いわば副産物的に誕生したものである。それゆえ、『動物哲学』には、「分類」と「進化」の二つの主要論点が並存しているのである。したがって、分類から進化論へ、という、18世紀から19世紀にかけての時代の潮流の二つの要素が、ラマルクには内在しているといえよう。
 一方、音楽史上のベートーヴェンは、古典派に位置づけられるのが通例であるが、彼の第2期や第3期(中期や後期)の作品をめぐっては、見解が分かれている。そもそも、ロマン派の開始時期をめぐって、いくつかの説があるという事態の最大の要因が、ベートーヴェンの第2期・第3期の作品群をどう位置づけるかという問題なのである。それゆえ、ベートーヴェンもまた、古典派からロマン派への時代の移行期に活躍した人物であることは確かであろう。
 ラマルクとベートーヴェンの二人は、人間としての性格や生涯を通しての生き方については、似ている点もあるが、対極的な部分も多い。だが、彼らの生み出した著作・作品に関しては、彼らの同時代、1800年前後のヨーロッパの社会の変動を反映し、その時代の移行期に特有の世界観が滲み出ている点において、相似的であると筆者は考える。現在、彼らの代表作とみなされるものについては、とりわけそれが顕著であるように思われる。
 この小論の構成は、以下の通りである。
 次の第2節では、彼らが当時の時代状況からどのような影響を受けたかを確認する。続く第3節で、メインテーマである『動物哲学』と≪運命≫の世界観の比較対照を行う。第4節では、彼らの後継者たちが、彼らからどのような要素を汲み取って次の時代を築いていったのかを検討する。第5節では、18世紀から19世紀にかけて見られる、科学史と音楽史の並行性について議論し、二人の作品の世界観の同型性を、より大きな歴史的文脈の中に位置づけたい。そして最後の第6節で、総括を行う。
 
 2.時代の刻印の類似性
 
 18世紀末から19世紀初頭にかけて、ヨーロッパ社会は動乱期を迎える。フランス革命や、ナポレオンによるヨーロッパ大陸制覇、ウィーン会議とそれへの対抗といった大変動を経験する。長い目で見れば、反動的ゆれ戻しはあるものの、絶対主義の中央集権社会から、近代的な市民社会への移行期であった。この時期のヨーロッパで、ラマルクとベートーヴェンは活躍した。
 ラマルクは、フランスで生まれ育ち、パリで活躍した。彼の学問的思索に多大な影響を及ぼした時代背景として、啓蒙思想とフランス革命が指摘できる。
 ラマルクは、啓蒙思想の系譜との関連が強い人物である。『百科全書』の編者の一人であるディドロや、『博物誌』の著者のビュフォンから、大きな影響を受け、それらの延長上ともいえる著作も残している。ラマルクは、J.ポアレとの分担執筆で、『植物学分類百科全書』(5)8巻を著しているし、ラマルクの『無脊椎動物誌』(6)は、ビュフォンの『博物誌』から欠落していた無脊椎動物部門を補ったもの、と見てもおかしくはない。
 こうしたことから、ラマルクが啓蒙主義の時代の代表的著作の理念を引き継いだ人物であることは疑いない。『百科全書』と『博物誌』の理念的共通点は、「枚挙による知識の系統的整理」といえる。彼の、個別的知識の記述への執着や、分類好みの姿勢の背景が、ここにある。
 ただし、フランスの博物学の系譜の内容自体は、むしろ帝国主義的な“世界のカタログ化の思想”に近く、王立植物園以来の、王朝の権威を象徴し、誇示するための宮廷コレクションの展示-世界支配の視覚化-と、密接な結びつきがある(7)。その意味では、ラマルクが引き継いだ啓蒙主義の理念は、前時代的内容を含んだものであったといえよう。
 その一方でラマルクは、啓蒙思想の政治的帰結ともいえるフランス革命とも、深くかかわっていた。その動乱期、それまでの職場であった王立植物園が、自然誌博物館へと改組される際に、国民議会に対し、来るべき組織のあり方を構想した草案を提出している。そして、自然誌博物館では、「昆虫類・ぜん虫類部門」の教授となっている。このころから彼は、平等の理念から、貴族的呼称(Chevalier de la Marck)を放棄し、Lamarckと名乗るようになったらしい(8)。彼は、自由・平等というフランス革命の理念を共有していただけでなく、社会変革による新しい社会体制の到来も、肯定的に捉えていたようである(9)
 このようにラマルクは、啓蒙期の18世紀的学問的理念を引き継ぐ一方、フランス革命の政治社会的理念も吸収していた研究者であった。
 一方、ベートーヴェンは、ボンで21歳まで生活し、1792年の末以降、ウィーンを中心に活動を続ける。
 ベートーヴェンは、彼の『日記』(10)からもわかるように、かなりの読書家であり、教養豊かな人物でもあったようである。彼の知的傾向は、まさに同時代の好みの主流をなすもの、との指摘(11)もある。その彼の知的関心の方向性を定めた時期が、1789年からの、ボン大学での聴講生としての学業期であろう。
 ボン大学は、啓蒙専制君主として名高い皇帝ヨーゼフⅡ世の改革精神のもと、ヨーゼフⅡ世の弟の選帝侯マクシミリアン・フランツによって、1785年に創立された大学である。この大学は、ドイツ文化圏での啓蒙思想の中心地として、各地から多くの学生を集めていたらしい。
 ただし、当時のドイツやオーストリアにおける、啓蒙思想に基く改革のあり方は、あくまで、「上からの改革」であったことを銘記しておくべきだろう。確かに、啓蒙専制君主たち(フリードリヒⅡ世やヨーゼフⅡ世ら)は、教育普及政策や、宗教寛容令や、農奴制の廃止などの諸改革を次々と実施して、近代的な国家への道を開いていった。だが、身分制的な諸特権は廃棄されずに温存され、旧体制の秩序構造を維持しつつの改革にとどまっていたのである。
 青年ベートーヴェンの過ごしたボンという街は、ボン大学を擁する一方、18世紀的なロココ風宮廷文化の中心地でもあった。近代的思想の拠点と、前近代的文化の混在する、「上からの改革」を象徴する都市であったといえる。
 さて、ベートーヴェンは、そのボン大学や、周辺の知的サロンやカフェでの交友を通じて、啓蒙思想や共和主義に感化されていったようである。また、フランス革命が多感な18歳のときに勃発し、さらに、革命を熱烈に支持するシュナイダー教授に接していた彼が、革命そのものに対してはともかく、革命の理念に共感するようになったとしても不思議ではない(12)。彼が作曲した唯一のオペラ、≪フィデリオ≫が、フランス革命期に起こった実話を基にしたストーリーであることも、彼がこうした感化を受けたことを裏づけている(13)
 またベートーヴェンは、ナポレオンに対して並々ならぬ思い入れがあった。有名な逸話だが、1803年に作曲を始めた第3交響曲≪英雄≫は、当初はナポレオンに献呈する心づもりだったといわれる。だが、翌年にナポレオンが皇帝の座についたことを知ったベートーヴェンは、その献呈を取り消したという。この逸話の信憑性はともかく、少なくとも、この交響曲がナポレオンを主題にして作られ、彼に献呈しようという構想があったことは確かなようである(14)
 ベートーヴェンの精神は、新しい社会の理想、自由・平等と、それを実現してくれる理想的指導者を望んでいたのだろう。ヨーゼフⅡ世のような、上からの啓蒙を理想としていた節がある(15)。献呈を計画していたころは、ナポレオンにその理想を投影していたと想像される。
 ところが、ベートーヴェンの理想とは裏腹に、彼の現実の人生は、旧体制の内容を引きずるものであった。ボンでは、14歳で宮廷楽士となり、おもに宮廷からの収入で、彼は一家を支えていた(父はアルコール依存症、母は彼が16歳のとき亡くなっていた)。またウィーンでは、貴族と対等に付き合おうとしていたものの、貴族の庇護の下での生活が続いた。さらに、ベートーヴェンは一生独身であったが、恋多き彼の恋愛の対象の多くは、貴族の女性たちであった(16)
 こうした二面性が、彼の作品に反映しないはずはないであろう。旧来の秩序の枠内から新しい理想のあり方を望む-これがベートーヴェンの無意識のうちに身につけた姿勢だったのではなかろうか。
 こうした彼の姿勢が、その時代の動向と不可分な関係をもって形成されたのは確実であろう。ドイツ的な啓蒙的改革のあり方や、ボンという都市の両義的性格、さらにはフランス革命の理想、これらが、ベートーヴェンの人格形成に深くかかわったと考えられる。
 このように、ラマルクとベートーヴェンは、活躍の場こそ異なるものの、同時代の知的雰囲気―前時代的内容を含んだ啓蒙思想や革命の理念など―を多少とも共有し、社会の変動の影響を受けていたのである。
 


(1) これに類する考え方を前提にした論考が、いくつか存在する。それらを紹介しておく。

 Suzannah Clark & Alexander Rehding eds., Music Theory and Natural Order, from the Renaissance to the Early Twentieth Century (Cambridge, 2001). この論集の序論での編者の宣言を引用しておく。「音楽理論は、自然についての相反するようなさまざまな観念を含んでいて、[中略]科学革命以降の時代でも、自然界や人間の本質の探究の結節点であり続けている」(Ibid., p.13

 Jamie James, The Music of the Spheres, Music, Science, and the Natural Order of the Universe (New York, 1993). [この邦訳は、ジェイミー・ジェイムズ著、黒川孝文訳『天球の音楽-歴史の中の科学・音楽・神秘思想-』(白揚社、1998)] 西洋音楽の歴史を貫く重要な関心ごとは、宇宙の調和についてであり、宇宙的テーマこそが音楽の真の目的であった、とジェイムズはいう(Ibid., pp.19-20 [訳書、p.32])。

 また、対極にあると思われがちな芸術と科学も、本来は相互に浸透しあい、依存しあっている人間の創造的活動の二側面であると指摘する、次の論考もある。伊藤俊治「共振する芸術と科学」、『思想としての科学/技術(岩波講座、科学/技術と人間9)(岩波書店、1999) 所収。

 さらに、思想史と音楽史との深いかかわりに着目してかかれた、次の思想家列伝もある。中村雄二郎『精神のフーガ-音楽の相のもとに-』(小学館、2000)

(2) この構造的必然性については、筆者による論文、「1819世紀における科学史と音楽史にみられる並行性-秩序からエネルギーへ-」(『山梨学院大学一般教育部論集』第24号、2002137-172)、第3節参照。

(3) ≪運命≫交響曲の資料批判については、児島新「第五交響曲について-主要資料とテキストの諸問題-」(児島新『ベートーヴェン研究』(春秋社、1985)所収、pp.103-119)を参照。出版は、21声部のパート譜が1809年4月に、スコア譜が1826年3月になされた。

年代については、作曲家の創作様式の変遷を知るためには、出版年よりも、創作した年の方が重要である、との指摘がある(大崎滋生『音楽史の形成とメディア』(平凡社、2002)p.185)。

(4) 筆者のラマルク研究の主要論点のひとつ。次の論文参照。森幸也「ラマルクの目指したこと」(『科学史研究』第Ⅱ期第33(No.189)199434-42)。

(5) J. B. Lamarck, J.-L.Poiret eds., Encyclopédie méthodique: Botanique (Paris, 1783- 1817) 8tomes.

(6) J. B. Lamarck, Histoire naturelle des animaux sans vertèbres (Paris, 1815-1822) 7tomes.

(7) 当時の植物園の帝国主義的性格については、松宮秀治『ミュージアムの思想』(白水社、2003)pp.187-192、を参照。また、世界のカタログ化については、同書、pp.91-92、を参照。

(8) Yves Delange, Lamarck, sa vie, son oeuvre (Arles, 1984), p.117. [この邦訳は、イヴ・ドゥランジュ著、ベカエール直美訳『ラマルク伝-忘れられた進化論の先駆者-』(平凡社、1989)p.121]

(9) ラマルクは共和制を深く支持していたフランス革命時代の人物である、とマドールはラマルクのいくつかの著作に基づいて判断している。Madeleine Barthélemy-Madaule, Lamarck, ou le mythe du précurseur (Paris, 1979), pp.25-28. [この邦訳は、M. バルテルミ=マドール著、横山輝雄・寺田元一訳『ラマルクと進化論』(朝日新聞社、1993)pp.21-24]

(10) メイナード・ソロモン編、青木やよひ・久光重光訳『ベートーヴェンの日記』(岩波書店、2001)

(11) メイナード・ソロモン「ベートーヴェンの『日記』について」、前掲書所収、p.7

(12) ベートーヴェンのボン大学での交友や、彼が受けた感化、またシュナイダー教授とのかかわりについては、フリーダ・ナイト著、深沢俊訳『ベートーヴェンと変革の時代』(法政大学出版局、1976)pp.15-25、参照。

(13) ラシュトンは、≪フィデリオ≫を、「啓蒙主義と革命に対するオペラの反応の絶頂に位置するもの」とみなしている(ジュリアン・ラシュトン、前田直哉訳『古典派音楽小史』(音楽之友社、1995)p.183)。

(14) メイナード・ソロモン著、徳丸吉彦・勝村仁子訳『ベートーヴェン・上』(岩波書店、1992)、第13章。

(15) ベートーヴェンが、ヨーゼフ2世に対して並々ならぬ思いを抱いていたことは、ヨーゼフ2世死去に際しての追悼式のために、1790年に≪皇帝ヨーゼフ2世の死を悼むカンタータ≫WoO 87、を作曲していることからもうかがえる。

また、彼が上からの啓蒙を理想としていた、という見解は、次の論文に基づく。幣原映智「革命と反動の時代のベートーヴェン」(大宮眞琴他監修『鳴り響く思想-現代のベートーヴェン像-』(東京書籍、1994)所収、pp.102-103)。

さらにまた、次のような見解もある。「貴族にして救済者という観念に依存する態度は、晩年までベートーヴェンの信念の中心をなしている」(ソロモン、前掲『ベートーヴェン・上』、p.77

(16) ベートーヴェンの女性関係については、青木やよひ『ベートーヴェン〈不滅の恋人〉の謎を解く』(講談社、2001)、第2章を参照。

また、ベートーヴェンとハプスブルグ家との関係については、渡辺護『ハプスブルグ家と音楽-王宮に響く楽の音-』(音楽之友社、1997)pp.135-143、を参照。


(その2)に続く。



 

 

関連記事
スポンサーサイト

テーマ - 文明・文化&思想

ジャンル - 学問・文化・芸術

△page top

△page top

Secret

△page top

トラックバックURL
→http://wood248.blog.fc2.com/tb.php/3-c4708bb9
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

△page top

カテゴリ

全記事一覧リスト

最新記事

月別アーカイブ

コメントをどうぞ

最新コメント

最新トラックバック