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作曲と思索の愉しみ

オーケストラ作品の作曲・制作過程や、科学史と音楽史の研究にかかわる記録です。 森さちやの自作曲の公開も行います。 曲と思索を分かち合いたい。

輪廻転生は、仏教思想と矛盾する 

Posted on 09:25:18

 
 『スッタニパータ』や『ダンマパダ』といった、原始仏典の日本語訳を読んでいて、時折出てくる「輪廻転生」の考えに、私はどうしても引っかかってしまいます。
 偈の端々に見え隠れする、「輪廻転生」の想定に、なぜ違和感を覚えるのか、ここに記しておきます。

 
 「輪廻転生」とは、魂、あるいは精神的な存在が、肉体の死後も継続し、他の生物個体内に引き継がれる、といった考え方です。必ずしも人間に生まれ変わるとは限らず、動物や、神々の世界に生まれ変わることも想定されています。
 おそらく、こうした考え方は、今から2500年ほど前のインド社会や、その当時普及していたバラモン教にとって、ごく常識的な考えであったのでしょう。
 釈尊(あるいは仏典の編者たち)は、そのアイディアを、仏説にさらに説得力を付加するための“方便”として、活用していたのではないか、と私は推測するようになりました。
 その理由は、「輪廻転生」の概念が、仏教の根本思想である「諸法無我」と矛盾しているからです。
(後の時代の弟子たちが編纂した、教祖の説話録、という体裁の資料に対して、整合性を期待するのはないものねだりかもしれません。しかしながら、仏教の根幹をなす思想と抵触する概念が気になってしまうのも確かです)
 「私」「我」「私のもの」といった考えは幻想であり、そのような実体は存在しない。そのような、「我」にまつわる核を構想してしまう精神の在り方を観察・了解し、そうした誤った認知を手放していくのが、仏道の本来的な姿である、と私は認識しています。
 それに対し、「輪廻転生」で主役となっているのは、魂、あるいは何らかの非物質的な存在であり、それらが不変の実体として相続されると想定されているわけです。
 そのような実体は、そもそも人間精神が作り出してしまう“妄想”に類する幻である、と洞察するのが、仏教の「諸法無我」の哲学のエッセンスでしょう。
 したがって、「輪廻転生」は、「諸法無我」という仏教の根本思想のひとつと矛盾します。
(だからといって、私は「輪廻転生」を否定するわけではありません。肯定もしませんが。私には判定不能です。ここではただ単に、「諸法無我」と矛盾していることを指摘しただけです。念のため)
 「輪廻転生」は、やはりバラモン教やヒンドゥー教の実体的な「アートマン」思想との相性が良い概念であり、仏教とは馴染まないように思われます。
 そのため、私は、原始仏典に見え隠れする「輪廻転生」のアイディアに引っかかっていたのでした。
 さらに言えば、「輪廻転生」の概念は、「諸行無常」とも馴染みません。
 万物は移り変わっていくものです。不変のものなどありません。魂のみが変わることなく継続していく、といった想定は、「諸行無常」の観点からすれば、未熟な思考と判定されるでしょう。
 
 このように、原始仏典にしばしば顔をのぞかせる「輪廻転生」は、仏教の根本思想と対立・矛盾します。それゆえ、原始仏典における「輪廻転生」の重みを割り引いて読解した方がよいのではないかと思うようになった次第です。
 
 
ついでですが、死者につける「戒名」も、「諸法無我」の精神と矛盾するように、私には思われます。「戒名」は、仏教的ではありません。


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ジャンル - 学問・文化・芸術

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