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輪廻転生の観念は、単細胞生物時代の記憶か?

 
 最近私は、原始仏典の『スッタニパータ』や『ダンマパダ』を日本語訳で読んだり、それらの解説を拾い読みしたりしたのですが、その際、「輪廻転生」を前提とした言明がかなり頻繁に出てくることに気づきました。

 
 それは単に、今からおよそ2500年前の、仏陀の時代のインドにおける社会通念に過ぎなかったのかもしれません。
 釈尊が、どこまで本気で「輪廻転生」を考えていたかは、私には知る由もありませんが、「輪廻転生」の観念が、原始仏教の思想との相性は良さそうだ、ということは飲み込めてきました。
 「諸行無常」や「諸法無我」の教えと、生命存在が「輪廻転生」するという考え方とは、整合的に結びつくように思われます。
 常に変化して、永続的に存在するものはない。「自分」や「私」といった認識は、幻想にすぎない。
 そのような仏教の根幹の教義からすれば、生命形態が変化し続けるのは当然であるし、また、個体として確固たる輪郭があるわけではないことが、自ずと了解されてきます。
 生命は流動的であり、その縁は、ぼやけている。
 仏教的生命観を、あえて噛み砕いて表現すると、そのようになるのではないでしょうか。
 
 ところで、細胞分裂で増殖する、ゾウリムシのような単細胞の生物には、「必然的な死」は存在しません。
 多細胞の動物や植物は、子孫を残しますが、個体としては、いつかは必ず死ぬように運命づけられています。それに対して、単細胞生物は、基本的には分裂によって増えるため、分裂のもととなった個体が何世代にもわたって生き延びることが可能です。
 この事態は、一種の「輪廻転生」ではないか、と私は思ったことがあります。
 細胞分裂のたびごとに、その生物は生まれ変わります。しかし、遺伝子や細胞質基質の相当部分を、以前のもととなった生物から引き継ぎます。
 生命が引き継がれる際には、変容する要素と、継続する(不滅の)要素とがある。そのような、世代交代の本質を、単細胞生物はわかりやすく示しているようです。
 一方、人間がもし「輪廻転生」するならば、肉体としての入れ物は変容するものの、その主である精神は継続する、という形をとるわけですから、やはり、「変容と継続」という構図を見て取ることができます。
 したがって、単細胞生物の世代交代と、「輪廻転生」の観念とのあいだには、構造的類似性がある、といえるでしょう。
 
 では、この類似性は、どこから来たのでしょうか。
 我々人間も、先祖に遡ってみれば、10億年以上前には単細胞生物でありました。長大な、単細胞時代を、生物は進化の過程で経験してきました。
 そのころの記憶の残滓を、人類はどこかに(仏教的には阿頼耶識に)抱えもっていて、それが、似た構造を保ったまま表現形態を変えて、「輪廻転生」の考えに結実してきた、とは考えられないでしょうか。
 だとすれば、「輪廻転生」の観念は、遥か昔の単細胞時代の名残の記憶が発露した産物であり、生命の世代交代の本質的側面の一部を言い当てている、といえるのかもしれません。
 
 このような、私の妄想的思索も、"前世の業"が作用した因果なのでしょうか。


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