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仏教の「不浄観」は、俗世間のアナロジー

 
 人間の死体が腐敗し、白骨化していく過程を観想することにより、人間の身体が“不浄”であることを諒解していく――それが仏教の「不浄観」です。
 私は、その「不浄観」に違和感を抱いていたのですが、最近、ようやく納得できるようになってきました。

 
 原始仏典の代表的経典である、『スッタニパータ』の第1章第11経「厭悪による超克」を読み進めると、次のような認識と提案がなされています。
 
 人間の身体内部は、皮膚に覆われているため、内部は見えないが、身体から外部につながるいくつかの穴から「不浄物」が流出してくることからわかるように、身体内部には悪臭を放つ汚物が詰まっている。
 また、死後、放置された死体は、腐敗が始まり、動物たちの餌食となる。
 私の身体もまったく同様であるから、身体に対する執着や身体に基づく欲望を手放したらいかがであろうか。そうすれば、自由で静寂な境地が得られるであろう
[荒牧則俊他訳『スッタニパータ』講談社学術文庫、2015年、pp.66-68より、森による要約]
 
 ここでは、外観からは見えてこない、内実の醜悪さが描かれている、と私は受け止めました。
 これはまさに、仏教の視座から見た「俗世間」の構図に他ならない、と気づきました。
 世間は、表面的には、整然とした秩序が維持された、美しい、麗しい世界に見えるかもしれませんが、その内実を凝視してみると、人間の醜い欲望や、他者への怒り・憎悪、自己中心的な振る舞い、などに満ち満ちています。
 その世間の現実をしっかりと認知するならば、出世願望や栄達、金儲けといった世間内での様々な欲望のばからしさに気づくことでしょう。そして、俗世間における諸々の執着―自己顕示欲やプライド、財産や家などへの執着―から解放され、心穏やかに生活していけるようになるでしょう。
 
 現実をじっくりと凝視すれば、その醜悪な本質が開示されてくるため、その現実に対する執着が軽減されてくる、という構造が、ここには描かれています。そして、その認識により、精神の平和が得られます。
 身体に対する「不浄観」は、俗世間に対する「不浄観」のアナロジーであったのです。

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