作曲と思索の愉しみ
オーケストラ作品の作曲・制作過程や、科学史と音楽史の研究にかかわる記録です。 森さちやの自作曲の公開も行います。 曲と思索を分かち合いたい。
2019/02/02 Sat.
「世間虚仮」と「朝三暮四」が指し示す境地
Posted on 09:16:47
聖徳太子の言葉とされる「世間虚仮」と、中国の古典『荘子』に登場する有名な成句、「朝三暮四」は、かなり相似た境地を指し示しているのではないか、と気づきました。
今回は、そのことを述べてみます。
「世間虚仮」とは、「人間の生きている世俗的世界の価値観―富や権力や名声や豊かな生活など―や、それらに対する欲望や争いや妬みや迷いなどは、虚しい、仮のものに過ぎない」といった意味でしょう。
世間の価値観から距離を置こうとする指向が明確です。よって、この箴言は、「求めない、手放す生き方」を推奨している言葉であろう、私は受け止めています。
もう一方の「朝三暮四」は、一般的には、「目先の違いにとらわれ、結果が同じになることに気がつかないこと、または、言葉巧みに人をだますこと」を言い表した故事と理解されていますが、実は、含蓄のある言葉なのです。
そのような表面的理解の奥に、『荘子』の「万物斉同」の思想が潜んでいます。
その思想とは、「結局、この世界のどんな出来事も、大した違いはない、等価なのだ」という考え方です。「朝三暮四」でも「朝四暮三」でも、変わりないのです。どうでもいいことなのです。
だから、そのことを深く了解した人は、俗世間の価値観から離れ、超然と生きていくことになるでしょう。
やはり、「求めない、手放す生き方」につながっていきます。
このように、「世間虚仮」と「朝三暮四」とは、どちらも、世間的価値観から距離を置く生き方、「求めない、手放す生き方」を示唆している成句である、と私は捉えています。
※参考:大谷大学の読むページ、生活の中の仏教用語 - [261]「世間虚仮」より、一部抜粋。
ここでいう「虚仮」とは、文字どおり「空しくて、仮のもの」という意味である。世間では金や名誉・権力などを狩り立てられるかのように追い求めているが、それらは本当に心に平安をもたらすものであろうか。究極的な心のよりどころを与えてくれるのは、世間を越えた仏のみである。「世間虚仮、唯仏是真」は、争いや陰謀の渦巻く政治の世界に長く身を置いてきた太子が、最終的にたどり着いた心境に違いない。
もちろん世間に埋没している限り、世間が虚仮であることは分からない。やや逆説的にいえば、虚仮を越えた真実の世界(仏の世界)と照らし合わせて始めて、世間が虚仮であることが実感されるのである。
※ブログ記事<『荘子』大宗師篇「真人」と、斉物論篇「朝三暮四」―世間との折り合い―>と、<『荘子』の「朝三暮四」の精神と六波羅蜜の「忍辱」>も、ご参照ください。
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