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作曲と思索の愉しみ

オーケストラ作品の作曲・制作過程や、科学史と音楽史の研究にかかわる記録です。 森さちやの自作曲の公開も行います。 曲と思索を分かち合いたい。

学生のマナーの悪さを注意する、教員側の問題 

Posted on 10:22:35

 
 私の本職は、大学の教員です。
 大教室での、百数十名の学生に対する授業をいくつか持っているため、しばしば、いたるところで発生するおしゃべりなどに、悩まされます。
 その学生のマナーの悪さを助長する要因が、当の教員サイド(つまり、私の側)にもあるかもしれない、と気づいたので、そのことをここに記しておこうと思います。

 
 毎週のように、授業中、学生の私語で騒がしくなるのが、金曜4時限目の「人間と科学Ⅰ」という科目です。150名前後の学生が、定員270人の教室で、私の授業を聴きます。
 受講人数の多さに加え、この授業が1週間の最後の授業で、これが終わると解放される、という、学生の浮ついた気分も相乗的に作用するせいか、なかなかうまく教室の秩序を保つことができません。
 私語・スマートフォン・ゲーム機・イヤフォン、これらのいずれかが(ほぼすべてが)、教室のどこかで見られます。
 私語を注意して、いったん静かになっても、やがて、同時多発的におしゃべりが再開したりします。また、イヤフォンを外してもらった学生も、しばらくすると、いつの間にか再びイヤフォンを装着していることもあります。
 6月の最後の週の授業では、授業マナーについて少々時間をとって、説教もどきの話をしてしまいましたが、振り返ってみると、逆効果だったかもしれません。学生が反発している様子がうかがえたからです。
 
 その日の授業を終えたのち、考え込んでしまいました。
 私がほぼ一方的に話す、講義型の授業ではありますが、その場の雰囲気は、学生と教員とが協働して作り上げていくものでしょう。教室が、学びに向けての良好な空間として成立するためには、学生と教員の双方が、それなりの自覚を持って臨んで行かなければうまくいかないでしょう。
 といったことを、学生に話したのです。
 では、教員サイドが留意しなければならないことがあるだろうか、あるとすれば、どんなことだろうか、と考えていくうちに、私の側にも、学生の反発を招き、学生との親和的関係を妨げるような要因が、2点あったことに気づきました。
 学生の側に問題がない、などというつもりは全くありませんが、教員の側にも、軽視できない要因があることを、銘記しておきたいのです。
 
 ひとつ目として、私の授業の進め方に、「押しつけがましさ」を学生たちが感じていた可能性があった、ということ。
 講義型の授業では、そのテーマに関する知識や理論、考え方や教員の見解などを、受講生に伝えたい、理解してもらいたい、という意欲を強く持って、教員は授業に臨みます。ところが、もしそのテーマにあまり興味のない学生ならば、夢中になって熱弁を揮う教員を見て、「我々学生たちを洗脳しようとしているのではないか」と疑いかねません。少なくとも、引いてしまう学生はいるであろうと想像できます。
 学生たちは、自分たちが教育産業における消費者であり、客である、という意識を多少とも持っています。そのため、授業内容の伝授に過剰に意欲的な教員に対しては、強引に商品を売りつけようとしているセールスマンのように感じ取っているかもしれません。
 その反発の結果、かえって学生の学習意欲を削いでしまっている可能性も、無きにしも非ず、と推測しました。
 あまりムキにならずに、冷静に、淡々と授業をした方が、場合によってはよいのかもしれません。
 
 ふたつ目として、教室空間の秩序を保とうとする私の「コントロール願望」に、学生たちは圧迫感を覚え、反発した可能性があった、ということ。
 授業日によっては、私は、マナーの悪い学生たちを、シラミつぶしに注意することがありました。「後ろから2列目の青いシャツを着ているあなた、聞こえますか。イヤフォンを取って下さい」といった注意です。
 注意も、やりすぎると、学生の反発を招いてしまうのでしょう。学生たちは、自分たちは客である、と思っていますから、教室内でどう振舞おうとも、自分たちの勝手だろう、と、心の奥では考えていることでしょう。そのため、強く自制を求めてくる教員に対しては、拒絶反応を示してしまう可能性があるかもしれない、と考えたのでした。
 教員ができることは、穏やかに注意するところまでで、強制的に黙らせたりスマートフォンをしまわせたりすれば、パワハラと受け取られる可能性すらあります。注意したのち、学生がどう行動するかは、その当該の学生の自由と考えるべきなのでしょう。
 やはり、あまりムキにならずに、少々のマナーの悪さは許容した方が、授業の雰囲気は全体として良好になるのかもしれません。
 
「教員の注意に対する学生側の振舞いの自由」は、「教員の授業内容に対する学生側の受け止め方の自由」と同型の構図となっていることに気づきました。教員は、注意したり、理論の考え方を講義したりはできますが、それらを学生に納得・了解してもらえるかどうかは、教員の思うがままにはならない、ということです。
 
 教員サイドの「押しつけがましさ」と「コントロール願望」、結局両者とも、私の「エゴ」、「欲望」がむき出しになったものです。
 学生たちは、教員が無自覚のうちに周りに発散してしまう、醜悪なエゴイズムを、敏感に感じ取って、反発・拒絶し、おしゃべりやスマートフォンに逃げ込んでいる、といった側面もあるのではないか、と私は考え込んだのでした。
 
 教員と学生とは、背負っている文化的背景が相当異なっています。それゆえ、大教室での授業は、「異文化コミュニケーション」の一種と考えることができます。
 そうであるならば、教員側の指示が一方的に正しく、学生の振舞いが不適切である、といった見立ては、修正せざるを得ないでしょう。お互い、価値観が異なっている、ということを認めて、折り合いの付くポイントを探っていく、という試みが、現実的方策のように思えてきました。
 
 「教える」という仕事は難しい。
 私はまだまだ修行が足りない、と感じた次第です。


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