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作曲と思索の愉しみ

オーケストラ作品の作曲・制作過程や、科学史と音楽史の研究にかかわる記録です。 森さちやの自作曲の公開も行います。 曲と思索を分かち合いたい。

横山大観『放鶴』に見る、文明と野性 

Posted on 11:20:32

 
 長野市にある水野美術館を、先月末の日曜日、6月24日に訪ねました。
 そこで鑑賞した日本画の中で、とりわけ印象に残ったのが、横山大観の『放鶴』です。

 
 最初に入った展示室では、「中国詩人の物語」をテーマとした日本画が集められていました。その大観の作品も、北宋の詩人、林和靖(りんなせい)の逸話に基づいて描かれたということです。
 林和靖は、鶴を飼い馴らしていたそうです。その詩人が、鶴を自然に還す情景を、横山大観は描いたのです。
 近景には、屋敷と、複雑な枝ぶりの松と、男性二人が描かれ、彼らの近くには、先ほどまで鶴が入れられていたであろう籠がみられます。
 遠景には、峩々たる岩山がかすんで、うっすらと見えています。
 その奥行きのある空間を、放たれた鶴が飛び去って行きます。
 鶴は小さく描かれ、やがて自然界に融和していくであろうことが暗示されています。
 
 文明システムに縛られ、俗世間の価値観に飼い馴らされてしまっている我々の中には、その束縛から解放されたいという想いが潜んでいます。
 横山大観はおそらく、そうした現代人の隠れた願望を、鶴に託して描いたのでしょう。
 現代文明の中で生きていても、我々の心身の中には、自然性・野性が宿っています。しかも相当に抑圧されて。我々は、籠の中の鶴なのです。
 そして、いつかは大空へと飛翔し、のびのびと気流と溶けあう陶酔を味わいたい、と願っています。
 そうした願望を、見事に作品として描きあげている、と感じたのでした。
 屋敷と山岳風景の対比は、俗世間や文明と自然の対比と重なります。枝ぶりの歪んだ松は、自然界に人為が介入している印と思われます。その間の空間を滑空する鶴は、文明の束縛から解き放たれた野生の姿の象徴でしょう。
 そのように解釈すると、この作品はまさに、「文明と自然の対比と調停」という文化人類学的な主題を扱った絵画であろう、と了解されます。
 
 かつて、日曜作曲家の私は、<イルカの旅立ち>という管弦楽作品で、こうした願望を描いてみました。そのため、この『放鶴』の絵画の目の前に一人佇んだ時(その時その展示室には、私一人しかいませんでした)、大観の感受性と共振する錯覚を抱き、身震いしました。
 これは<イルカの旅立ち>と同様なものを描き込んでいる、とすぐさま感じとったのです。
(私は、水野美術館を訪れるまで、その絵画についての知識を全く持っていませんでした。その存在すら知らなかったのです)
 
 絵画と音楽、画家と作曲家は、共鳴することもある、という経験でした。
(不遜な比較になってしまったかもしれません。ご容赦を)
 
参考までに、水野美術館の、過去のお知らせページに、『放鶴』の画像があります。


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テーマ - 絵画

ジャンル - 学問・文化・芸術

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