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作曲と思索の愉しみ

オーケストラ作品の作曲・制作過程や、科学史と音楽史の研究にかかわる記録です。 森さちやの自作曲の公開も行います。 曲と思索を分かち合いたい。

ラマルクの自由意志否定論 

Posted on 11:08:14

 
 進化論の先駆者として知られる、フランスの博物学者J.B.ラマルクは、人間の自由意志を否定しています。
 彼のその議論の展開の仕方は、無脊椎動物の研究者らしく、なかなか興味深いのです。その彼の自由意志否定論を、今回は紹介します。

 
 ラマルクは、一般には進化論者の側面ばかりが有名ですが、彼の専門は無脊椎動物の分類研究でした。彼の主著とされる『動物哲学』(1809年)には、進化学説も書かれてはいますが、その著作の中心テーマは、動物の自然分類体系を提示することでした。
(ラマルク、高橋達明訳『動物哲学』朝日出版社、1988年)
 その『動物哲学』の第3部・第6章の「意志について」という短い章において、自由意志否定論が展開されています。議論の大筋は、次の通りです。
 
 ラマルクは、動物の活動の仕方をめぐって、自身の動物分類の綱区分に従って、大きく3つのグループに分けて考察します。その3つのグループとは、以下の通りです。
 
A.神経系を持たない動物[滴虫類・クラゲ類]
B.神経系を有するが、悟性の器官を持たない動物[昆虫類・クモ類・軟体類など]
C.神経系と、悟性の器官を持つ動物[脊椎動物、とくに鳥類と哺乳類]
 
 Aのグループの動物には、そもそも意志が存在しません。感覚も持ちえません。それらの活動は、外界からの刺激に対する受動的反応(被刺激性)として、ラマルクは理解しています。
 Bのグループは、感覚能力を持ち、活動の基盤となる内的感性を備えてはいるものの、意志による活動とは、ラマルクは見做しません。感覚による刺激が内的感性を興奮させ、それが筋肉系に対して活動の指令を出す、という一連の物理的作用で、それらの動物の活動(本能的活動など)は説明がつく、と理解しているためです。思考・判断といった、意志を形成する要素が、それらの動物には存在しえない、なぜなら、悟性のための器官を欠くからである、とラマルクは考えています。
 したがって、ラマルクによれば、AとBの動物群、すなわち無脊椎動物には、意志は存在しないのです。それらの動物の活動はすべて、結局は物理的因果連鎖で理解できる、ということです。
 では、Cのグルーブ、脊椎動物はどうでしょうか。
 
 ここで、「意志」についてのラマルクの考え方を確認しておきます。
「意志は知性の行為の直接の成果である…意志は常に判断の結果であり、…ある観念、ある思考、ある比較、ある選択の結果だからである」(同書、p.400)
 意志とは「悟性の器官の働きによって、なんらかの活動を決意し、この活動を生むことのできる内的感性の興奮を刺激する能力に他ならない」(同上)
 このような、「意志」に対する考え方から、悟性の器官、つまり脳が十分に発達した鳥類と哺乳類において、意志による活動、知性による行為がはっきりと認められる(同書、p.403)、と彼は了解しているわけです。
 意志は、脳内での何らかのメカニズムによって発動する、と彼はイメージしているようです。
 
 ここでようやく、ラマルクの自由意志否定論に入ります。
 人間は、同じような状況においても、きわめて異なった行動をするため、「人間は意志の行為において動物よりもずっと自由なように思えるが、実はそうではない」(同書、p.405)とラマルクは語ります。
 その理由は、「意志は常に何らかの判断に依存しているから」であり、「決定を生み出す判断がそれ自体自由ではない」からです(同上)
 私たちの判断は、気分・習慣・知識・観念・思考・過去の経験などの「諸要素の総体の必然的結果」であり、「私たちは現実に自由ではない」のです(同上)
 我々が自由に行っていると錯覚している思考も、実際は過去の知識や記憶に束縛されています。思考は様々に条件づけられています。その思考に基づく「判断」や「意志」が自由ではない、というのは、論理的帰結として、説得力がある、と私は感じました。
 意志の発動による、一見、自由に見える活動行為も、現実には何らかの複雑に絡み合った因果連鎖のメカニズムによって支配されている、とラマルクは理解しているのです。
 無脊椎動物の活動が、物理的因果連鎖で理解されるのと同様に、意志の発動が観察される鳥類と哺乳類においても、メカニズムによる決定が貫徹されている、というわけです。 このような理解のもと、ラマルクは、自由意志を否定したのでした。
 
 この章を読み、私は仏教思想の「縁起(因縁生起)」説や「五蘊」の考え方を連想しました。人間の思考や行為が、さまざまな要因によって束縛されている、という基本理解に関しては、よく似ていると思います。
 仏教ではそもそも自我は錯覚であり、「無我」が適切な見方であると了解していますから、自我の持つ意志も、幻想にすぎない、ということになるでしょう。
 ただし、仏教ではそうした束縛(すなわち「苦」)からの解放の道筋を描きますが、ラマルクにはそれはありません(知性の行為に問題があることは認識していましたが)。ラマルク本人がその方向を模索していたかどうかは定かではありませんが、もし考えていたとしても、動物学者としての考察範囲を守って、『動物哲学』の著作のテーマから外れ過ぎないようにして、敢えて書き記さなかった、ということかもしれません。
 
 書かれてはいないけれども、この問題に関連して、次のような問いが自ずと出てきます。
「では、思考や意志からの自由はありうるのか、過去の諸要素の総体である頭脳のメカニズムに束縛されない、あるいは自我の活動に縛られない自由な活動はありうるのか」というテーマです。
 これはもはや、学問の範疇ではなく、宗教や芸術が取り組むべき課題でしょう。
 
 彼の自由意志否定論を、哲学史上の自由意志の議論と比較してみるのも面白そうです。ただ、私には手に余るので、これ以上深入りはしないことにします。

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