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作曲と思索の愉しみ

オーケストラ作品の作曲・制作過程や、科学史と音楽史の研究にかかわる記録です。 森さちやの自作曲の公開も行います。 曲と思索を分かち合いたい。

仏教学的知識の限界 

Posted on 09:02:42

 
 仏教を学ぶ、というのは、仏教的考え方や生き方を学び、自らの生き方を反省したり見直したりすることだと思います。
 私は研究者の性から、仏教思想に対する学術的研究にも関心を持ってきましたが、仏教教義に関する学問的知識は、場合によっては、仏教を学ぶ当初の目的に対しては有害な作用をなすことがある、と感じるようになりました。もちろん、知識には一定の役割と位置づけがある、と認めてのことですが。

 
 以前から私は、如来蔵思想に興味があり、経典の翻訳や解説、研究書を読んできています。ごく最近では、『シリーズ大乗仏教8 如来蔵と仏性』(春秋社、2014年)という書物を入手し、その本に収録されている諸論考を読解していきました。
 その勉強によって得られた学術的知識の中でも、とりわけ印象に残っているのが、「如来蔵」とは如来を「胎児」として有しているのではない、という近年の知見です。
 私は、高崎直道氏の著作に親しんできましたから、「一切の衆生に如来の胎児が宿されている」という解釈に疑問を持っていませんでした。ところが、「如来の胎児」ではなく、「如来の本性」を有する、というのが、『如来蔵経』などの経典に対する妥当な解釈ということでした。
(下田正弘「如来蔵・仏性思想のあらたな理解に向けて」同書、p.26、また、ミヒャエル・ツィンマーマン「『如来蔵経』再考」同書、p.125)
 この解釈の訂正は、如来蔵思想の要点に関わることですから、学術的には極めて重要な論点でしょう。仏教学上の、ひとつの貢献ではありましょう。
 
 しかしながら、この新たな知識は、人間の生き方に対しての変更を迫ったりはしません。「如来の胎児」であろうと「如来の本性」であろうと、大事なことは、それを体感して、自らの生き方に反映させることではないでしょうか。
 そもそも、自身の内なる「如来」とはおそらく、思考や論理、概念によっては、把握・表現することのできない性質のものであろうと思います。あるいは、言語で表現されたものは、当の本体とどうしてもずれてしまうことでしょう。
 「内なる聖性」「生命の活力」「エネルギーの流れ」「吹き抜ける涼風」など、言い表し方は異なっていますが、こうした暗喩はみな、「如来の本性」と同じ事態を指していると思われます。如来蔵思想を活用しようとする当人が、感得しやすい言葉遣いを用いて、了解すればよいのではないでしょうか。
 そうであるならば、「如来の胎児」と「如来の本性」との違いは、大した重要性を持ちません。所詮、比喩的表現に過ぎないからです。
 学問的には明確にすべき事柄でしょうが、その思想の実践(とくに煩悩の崩落)に対しては、些末なことです。
 その意味では、知識は無力です。
 むしろ、軽視できないふたつの欠点を伴います。
 ひとつは、用語や概念に固執してしまいがちなことです。言葉の世界に耽溺してしまい、その言葉が暗示している当の本体に対する感受性が鈍くなってしまう懸念があります。
 もうひとつは、知識を獲得してより賢くなった、という錯覚を抱き、自我のプライドを増強させてしまう、という弊害です。自我への執着を手放す、という仏教の根幹の指向性に反してしまいます。
 そのような知識の構造を認識しておくことが大事だと思います。
 学問的知識には、副作用が伴うことがあるのです。
 これは、私自身に対する戒めでもありました。
 
(次回に続く予定)


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