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作曲と思索の愉しみ

オーケストラ作品の作曲・制作過程や、科学史と音楽史の研究にかかわる記録です。 森さちやの自作曲の公開も行います。 曲と思索を分かち合いたい。

如来蔵思想の効用と短所―他者への寛容と自我への執着― 

Posted on 11:59:00

 
 大乗仏教の思想的流派のひとつに、「如来蔵思想」があります。この思想が提示する世界像は、私にはなかなか魅力的なため、この系譜の経論の翻訳や解説や研究書を読んできました。
 その際に感じるようになった、如来蔵思想の効用と短所について、ここに書き留めておこうと思います。

 
 仏教思想の研究者、高崎直道氏によると、如来蔵思想の中核をなす経典は『宝性論』であり、如来蔵思想の起源は、『如来蔵経』に発する、とのことです。
 また、『宝性論』に影響を及ぼした如来蔵系の主要な三部経として、『如来蔵経』と『不増不減経』と『勝鬘経』が挙げられています。
(『高崎直道著作集第四巻・如来蔵思想の形成Ⅰ』春秋社、2009年、序論と第一部より)
 如来蔵思想とは、それらの経典に書かれている「一切衆生、有如来蔵」に要約される世界観で、「すべての人々には、如来の“胎児”が宿っている」という考え方です。
 煩悩という客塵に覆われてはいるものの、我々の内部には、将来仏となる種子が胚胎されている、という主張です。
 そのように断言できる最大の根拠として、仏性のもつ遍満性・浸透性を、上記の諸経典は提示しています。法身には、世界の全領域を覆いつくし、遍く浸透していくという本来的性質がある、という汎神論的世界認識が、如来蔵思想の根幹を支えているのです。
 それゆえ、どんな人にも、仏の智慧や、自性清浄心が内部に宿されている、と考えられるわけです。
 
如来蔵系の三部経の日本語訳は、次の書物で読めます。
高崎直道訳『大乗仏典12・如来蔵系経典』(中央公論社、1975年)
 
 さて、この如来蔵思想には、大きな効用がふたつある、と私は感じています。
 ひとつ目は、日常生活において、周りの人たちに対して優しく対応することができるようになる、ということです。
 どんな人にも如来の種子が宿っているのですから、自分に対して非難したり侮辱したりしてくる人たちに対しても、怒ったり言い返したりせず、寛容に対処できるようになるのではないでしょうか(「忍辱」の実践)。また、他者を妬んだり批判したりする狭量な精神が、おのずと克服されていくことでしょう。
 つまり、周囲の人々との人間関係が平和になる、というメリットがあるわけです。
 ふたつ目は、自らの行動や精神活動の統御が、より容易になる、ということです。
 自分の中にも仏様が鎮座しているのですから、周りの人たちに対して優しく振舞いたくなるでしょうし、道徳的に行動するようになるでしょうし、謗られても気にならなくなることでしょう。また、日々の務めを適切に遂行できるでしょうし、精神も動揺することなく穏やかでいられることでしょう。さらに、この世界や人間関係に対する洞察力も鋭敏になることでしょう。
 言い換えれば、自らの内なる如来を想念することによって、日々の暮らしの中での六波羅蜜[布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧]の実践が自然に行われるようになるであろう、ということです。
 結局、このふたつの効用は、ひとつの内容の両側面でありました。
 
 しかしながらその反面、如来蔵思想には、無視できない短所が2点ある、と私は気づきました。
 ひとつ目は、如来を蔵している自分、という自己イメージが、「自我の肥大」を招く惧れがある、ということです。うぬぼれてしまうのです。
 自分を価値ある者、優れた者と錯覚してしまい、精神の構築物であろう自我を強固な実体的な存在と誤認しかねません。そもそも仏教では、自我の虚妄性を洞察することが必須の課題となっています。「無我説」は、仏教の看板ともいえるものです。それゆえ、自我への執着を助長してしまうのであれば、問題ありと言わざるを得ません(大乗仏教の中でも、とりわけ中観や禅といった流派の視座からは、見逃せない欠点に映ることでしょう)
 ふたつ目は、仏性が遍在して各人に如来が宿るという世界像に、その思想に共鳴する人が固着してしまう惧れが無きにしも非ず、ということです。
 ネオ・プラトニズムにも似た、この汎神論的・流出的世界観は、確かに魅力的です。そのため、この見方を真実の世界の描写と受け止めてしまうと、現実の流動する世界をその世界観で解釈してしまいがちになりかねません。如来像的世界イメージを実際の世の中に投影してしまい、現に生起している世界の変動を鋭敏に感受できなくなる惧れがあるのではないでしょうか。また、その居心地の良い世界に安住してしまい、現実の社会における対立や争い、悲惨さや理不尽さや、自分の内面に潜む貪欲さや怒りなどに気づきにくくなるかもしれません。
 このことは、如来蔵思想に限らず、宗教的世界観に一般的に該当する欠点でしょう。美しい世界像は、現実世界の醜さへの眼差しを曇らせます。
 自分たちのもつ世界観にしがみついてしまう、というのも、人間のもつ煩悩のひとつです。その煩悩に対しても自覚したいものです。
 
 このように、如来蔵思想には、効用と短所の両面があるとみられます。それゆえ、この思想の提示する世界像については、真なる世界の描写とは了解せずに、人間修養のために構築された「方便」、と受け止めるのが賢明なのではないかと愚考しました。
 仏性や如来の胚で遍満した世界、というイメージも、言語によって組み上げられた産物であり、世界そのものではありません。写実的絵画が現実の世界ではないのと同様です。世界を感じ取り、理解し、よりよく生きるためのひとつの「道具」としてこの世界像を活用する、という距離感が望ましいように、私には思われました。
 

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