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作曲と思索の愉しみ

オーケストラ作品の作曲・制作過程や、科学史と音楽史の研究にかかわる記録です。 森さちやの自作曲の公開も行います。 曲と思索を分かち合いたい。

歴史における進歩史観の弊害(その2)  ―音楽史の場合― 

Posted on 09:20:10

 
 (その1)では、自然科学の歴史における、進歩史観の弊害についての考察をまとめておきました。
 今回は、音楽の歴史記述に伏流する「進歩史観」的思考を摘出し、そこに宿る問題を吟味していくことにします。

 
 一般的な音楽史の教科書的記述においては(例えば、グラウト/パリスカの『新西洋音楽史』など)、「進歩史観」ははっきり表立っては現れていません。科学史の場合と比較すると、各時代背景の影響や社会との関わりがより考慮され、歴史的文脈に沿った、穏当な記述がなされた文化史となっていると感じられます。
 研究分野としての歴史の浅い科学史に比べると、音楽史の方が、歴史記述の在り方に関しては成熟しているように思われます。
 しかしながら、音楽史においても、微妙な進歩史観的ニュアンスが、ところどころで顔を覗かせます。
 バロック音楽や古典派などのそれぞれの時代区分を、他の時期との優劣の観点を持ち込まずに、それぞれを独自な音楽活動として記述してはいるのですが、歴史全体としては、「人類の音楽活動は進歩してきた」という印象を与えているようです。
 また、音楽史の読者や研究者の側も、暗黙のうちに、時代とともに音楽は発展してきた、と考える姿勢が身体化されているように思われます。
(書物のタイトルに「進化」の文字が入っている音楽史の著作もあります。ハワード・グッド―ル、夏目大訳『音楽の進化史』河出書房新社、2014年。ただし、原著のタイトルは、The Story of Music です)
 
 「音楽の歴史には進歩してきた側面も多々ある」といった程度に了解するのならば、大きな問題はないかもしれません、しかし、もしも、過去の歴史における進歩を当然のことと見做してしまい、歴史を現在に至る1本の道のようにイメージし、現在の音楽の在り方を正当化、ないし無批判に賛美する歴史観が涵養されてしまっているならば、やはり問題ありといわざるを得ません。
 このような見方は、とりわけ音楽理論の変遷をたどる際に現れやすいようです。
 時代とともに音楽様式や和声構造などは確かに複雑化してきました。そして、ロマン派時代の後期には調性音楽の崩壊が進行し、20世紀前半に大変革がもたらされました。
 それらは、確かに方向性のある不可逆な歴史的変動であったでしょう。しかし、その歴史によって、現代の音楽が「最も進歩した」音楽であったり、「最善の」音楽であったりする保証がなされるわけではありません。
 音楽史に伏流する進歩史観は、現代の音楽に対する幻想を産み出し、昨今の聴衆の理解が困難な音楽を正当化し、批判を抑圧する、という弊害をもたらしたのではないでしょうか。
 
 現在から過去を振り返ると、歴史は現在に至る1本の道筋のように見えます。ところが、各時代においては、その時点より先の未来について、様々な可能性が予見されていたに違いありません。そして、結果として、それらの潜在的可能性のうちの一つが現実化し、実際の歴史を形成してきた、というのが実情でしょう。
 
20世紀前半の無調性音楽への流れを決定づけた、12音技法を開拓したシェーンベルク本人は、従来の調性音楽がまだ秘めているであろう潜在的可能性を探っていたと思われます。彼は、もう一方では『和声の構造的諸機能』(1954年)という著作を残し、調性音楽に対する一貫した理論的考察を行っているのです。また、『作曲の基礎技法』(1967年)では、シェーンベルクは懇切丁寧に、調性音楽の準拠枠内での創作法を解説しています。無調性音楽の“教祖”自身が、後継者たちが軽視していった調性音楽の可能性を十分考慮に入れていたことを、失念するわけにはいきません。
 
 そのように考えると、音楽の歴史においても、過去の歴史のターニング・ポイントにおいて、孕まれてはいたけれども実現しなかった、様々な新たなコンセプトや奇抜な様式の試行錯誤がなされたことでしょう。そして、それらは場合によっては、歴史に残ったものに比べて劣っていたからではなく、あるいは不適切なものだったからでもなく、ただ単にその時代の潮流と適合できなかっただけなのかもしれません。
 もしそのような可能性を捨てきれないとするならば、現代においても、過去になされたかもしれない試行錯誤を、再び現代的な形で試みるのも、意味のないことではないでしょう。
 そうした様々な潜在的可能性の芽を、暗黙の「進歩史観」は摘んでしまっているのではないでしょうか。
 
 無調性の現代音楽を作曲しないと一人前のスキルを持った作曲家とはみなされない、といった不可思議な風潮が、音楽アカデミズムの世界にはある(あった)ようですが、その背後には、音楽史に対する隠れた「進歩史観」が作用していたのではないか、と勘繰ってしまいます。
 無調性の現代音楽は、音楽史に伏流していた「進歩史観」の影響のもと、正当化され。絶対視・神聖視され、批判を許さないようになり、宗教的なイデオロギーのような存在に祭り上げられるようになったのではないでしょうか。
 無調性の現代音楽や、無調性ではない現代音楽にも、それら独自の魅力があるのは確かです。しかしながら、それらにあまりにも不当に高い価値づけが、過去になされてしまったように思われます。その大きな要因の一つが、音楽史における暗黙のうちの「進歩史観」であった、と私は考えています。

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ジャンル - 学問・文化・芸術

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