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作曲と思索の愉しみ

オーケストラ作品の作曲・制作過程や、科学史と音楽史の研究にかかわる記録です。 森さちやの自作曲の公開も行います。 曲と思索を分かち合いたい。

歴史における進歩史観の弊害(その1)  ―科学史の場合― 

Posted on 09:12:41

 
 私の本来の専門分野は、自然科学の歴史です。科学史においては、かつては進歩史観的視点からの記述が常識でありましたが、ポパーやクーンによる科学哲学的吟味がなされた頃から、進歩史観の孕む問題点が指摘されるようになってきました。
 進歩史観の孕む問題は、科学史のみならず、他の文化史の領野にも当てはまる場合が多いと考えています。音楽の歴史でもそうでしょう。

 
 科学史の場合、確立された現在の自然科学の体系を理解する、という目的に対してならば、進歩史観的記述は有効でしょう。現在の、物理・化学・生物などの諸分野の教科書的知見が、いつ、だれによってなされたか、といったことを、過去にさかのぼって確認し、時間軸上に定位します。それによって、事実や理論が発見された年表を作成できます。
 このような歴史記述のコンセプトを「遡及史観」ということがあります。現在の視点から、過去に遡って歴史を把握しようとしているからです。
 理科教育の観点からならば、遡及史観的な科学史でも構わないでしょう。現在の自然科学を理解するのが最優先の目的ですから。あるいは、自然科学の啓蒙、または“布教活動”的な目的には適った歴史となるでしょう。内容的に、「真理の発見物語」、「科学者英雄列伝」といった趣となり、“科学教”の宣伝にはうってつけです。
 しかしながら、それは、実際の歴史から大きくかけ離れたものとなってしまいます。また、現代科学を正当化することにつながりやすく、自然科学に対する批判的視点が欠けてしまいます。さらに、歴史に対する配慮が決定的に抜け落ちているため、学問的な歴史研究とはみなせません。
 そのような欠点があるため、進歩史観的な、あるいは啓蒙的な科学史のみでは問題があるのです。
 
 そのため、1960年代以降の科学史研究では、「遡及史観」や「進歩史観」の弊害を排除する指向性をもった歴史記述が目指されるようになりました。こちらの科学史を、とりあえず、「学問的」科学史、と呼んでおきます。
 数百年前の研究者は、現在の自然科学者と同じ問題意識を持っていたとは限りません。異なる探究目標を持っていたことが、往々にしてあります。
 たとえば、進化論の先駆者と(遡及史観的科学史では)見做されるラマルクは、進化理論の確立を目標に研究をしていたわけではありませんでした。彼は、当時(18世紀末)の分類学隆盛の時代思潮の真っただ中で、動物界の自然分類の体系確立を目指していました。そして、自らの分類が自然分類であることを示すために、進化学説を最重要の分類基準として導入したのでした。したがって、ラマルクはまず第一に、「分類学者」なのです。進化理論は、自らの分類を正当化するための手段でした。
(森幸也「ラマルクの目指したこと」『科学史研究(No.189)』岩波書店、1994年、34-42)
 現在の生物学の体系を理解するためならば、高校の生物の教科書に書かれている通り、ラマルクは、進化論の先駆者、またはダーウィンの先駆者で問題ないでしょう。ところが、ラマルク本人がもしそれを聴いたとしたら、そのような位置づけを拒否するかもしれません。そもそも、ラマルクの時代には、「進化論」という分野はなかったのです。したがって、進化論を目標にして研究する、というような事はありえないのです。
 変な喩えですが、イエス・キリストは、キリスト教徒ではありません。当時はキリスト教は存在していませんでした。イエスは、ユダヤ教徒でした。また、教団としてのキリスト教を作ろうとしていたとも思われません。
 それと同様に、ラマルクは進化論者ではなく、進化論の確立を目指していたわけでもありません。ラマルクは、分類学者でありました。
 このように、「学問的」科学史では、各理論や人物を、その時代の文脈の中に置き直して、それらの歴史的意味や必然性を探っていくのです。
 その理論の中には、進歩史観的科学史では排除される、誤った理論も、当然含まれます。むしろ、なぜ今日から見て誤りである学説(例えばフロギストン説など)が、当時の一流の科学者たちに支持されたか、といったことは、重要な研究テーマとなります。
 また、昔の研究者は、現在から見ると、“非科学的”な概念を使っていることがあります。あるいは、くだらない(と我々が感じる)問題に真剣に取り組んでいることもあります。それは、今日とは問題意識や探究目標が異なっているからなのです。
 そのような、当時の時代背景を十分考慮に入れたうえで、その時代の科学理論や研究者を理解していこうとするのが、歴史的視点に立った「学問的」科学史なのです。これでようやく、科学史も真っ当な歴史となり、他の歴史諸分野と肩を並べられる水準に達したのではないでしょうか。
(もちろん、こちらの科学史にも欠点はあります。過去のある時代の文脈を十全に再現することは、現実には困難であり、時代背景の再構成においては、研究者の主観・恣意が入り込んでしまうのが不可避である、という点です。他の歴史諸分野にも共通するウィークポイントでしょう)
 
 歴史的視点に立つと、現代の自然科学を相対的に見ることができます。現代科学も、ある準拠枠の中で営まれ、時代思潮の影響を被っていることが見えてきます。よって、科学史は、現代科学への批判的視座を提供することができるはずなのです。
 ところが、「進歩史観」的な科学史では、現代科学を正当化することはあっても、批判的視座を養成することは難しいでしょう。「現在が最高地点にいる」という幻想から抜け出ることが困難だからです。
 
 科学史研究では、過去半世紀余りの間に、「進歩史観」や「遡及史観」の孕む弊害に対して考察が積み重ねられてきました。これらの問題点は、多かれ少なかれ、他の文化史の領野にも該当すると思われます。
 私は、科学史と音楽史を比較するという研究を行ってきましたが、音楽史においても、「進歩史観」や「遡及史観」の孕む弊害が存在する、と理解しています。
 それについては、次回以降のブログ記事で述べてみたいと思います。


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