FC2ブログ

11 « 1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31. » 01

作曲と思索の愉しみ

オーケストラ作品の作曲・制作過程や、科学史と音楽史の研究にかかわる記録です。 森さちやの自作曲の公開も行います。 曲と思索を分かち合いたい。

バッハのパッサカリアと、ロクリアン正岡氏のパッサカリア 

Posted on 15:31:43

 
 バッハの代表的オルガン曲<パッサカリアとフーガ>と、そのバッハの作品を踏まえて作曲したロクリアン正岡氏の<ピアノパッサカリア「壊教」1999>を、比較して試聴しました。
 二つの作品からは、顕著な音楽観の対比が感じられます。ロクリアン正岡氏の創作によって、バッハの<パッサカリア>の提示する世界像がよりよく見えてきました。

 
 バッハ作曲<パッサカリアとフーガ>ハ短調、BWV582、この楽曲中の<パッサカリア>は、変奏曲形式の作品です。8小節単位の通奏低音が何度も繰り返され(オスティナート・バス)、その上声部に様々な変奏が現れてきます。
 私はこの作品に、「神の創造した世界の多様性」を讃えようとするバッハの意識を感じ取りました。
 バッハの他の作品にも該当することですが、彼の通奏低音は、神によって与えられたもの、神からの呼びかけ、とバッハ本人が意識していた可能性があります。我々も、時代を超えて、彼の通奏低音に宗教的匂いを嗅ぎ取ります。
 その通奏低音に対して、それぞれの変奏は、バッハの感じ取った世界の豊饒性を提示したものであるように思われます。私は聴きながら、動物や植物の多様性を連想しました。
 変奏曲ではあるものの、ゆるぎなく構築された安定感のある楽想からは、その多様性も、変化する多様性ではなく、現在の世界の「神の統轄する固定的秩序」が表現されているように感じ取れます。
 動物や植物の世界ならば、神によって創造されて以来、多様であるが変化のない世界。つまり、生物の進化を認めない、固定的な生物界の分類秩序の暗喩と受け取れるのです。
 バッハのほぼ同時代の分類学者、カール・フォン・リンネは、18世紀中頃に近代分類学の基礎を築きましたが、彼には生物進化の考えはありませんでした。バッハと同様に、ルター派プロテスタントであったリンネは、神が創造したこの生物界の固定的秩序を、分類学で再構築しようとしていたのです。
 そのリンネの生命観と類似の世界観が、バッハの<パッサカリア>がらは漂ってくるようです。
 ロクリアン正岡氏は、<ピアノパッサカリア「壊教」>が収録されたCD作品集の解説で、バッハの<パッサカリア>から「動かざる大地」「静止した地球」を連想した趣旨の内容を語っています。
 ロクリアン正岡氏も私も、「宗教的影響下にある固定的世界観」を、バッハのその楽曲から感じ取ったのでした。
 
 コペルニクス以前の宇宙像や、ダーウィン以前の自然観が、少なくとも自然科学の領域では通用しなくなっているのと同様に、キリスト教的な安定的・固定的世界を表現した音楽は、現代人の感受性を十分に満たすものではなくなっているのではないでしょうか。
 私には、バッハの音楽は、完成度の高い歴史的工芸品のように感じられます。骨董品の鑑賞のように、あるいは音楽史研究として、私はバッハを聴いてきたようです。
 しかしながら、バッハの音楽世界は、その後の音楽の歴史において、規範として作用し続けました。現代でも調性音楽の領域では、大バッハが構築した準拠枠による支配が常識として貫徹されています。
 バッハの音楽世界は、結果として、音楽世間の“しがらみ”を作り出したのでした。その押しつけがましさも、彼のパッサカリアからは伝わってきます。
 我々は、時代背景の異なる18世紀に投じられた網に絡めとられて、不自由な音楽活動を強いられているのかもしれません。
 そこからの脱出の道筋を模索した試みの注目すべき事例として、ロクリアン正岡氏の<ピアノパッサカリア「壊教」1999>を捉えることができるでしょう。
 

 

 
 バッハのパッサカリアを踏まえたロクリアン正岡氏のパッサカリアは、最初の8小節の通奏低音の音型のみは似ているものの、聴き手が受け取る印象は対極的です。
 バッハのような安定感・固定感・落ち着きはなく、不安・流動性・精神の動揺が伝わってきます。「諸行無常の音型」といえましょうか。
 バッハが「重力優位の世界」であるとするならば、ロクリアン正岡氏の楽曲は、「遠心力優位の世界」でありましょう。
 バッハと同様、変奏曲ですが、その音型を基本としつつも、変奏の基盤自体も変容し、拍子も、2分の3拍子から4分の5拍子へ、さらに4分の7拍子へ、と変貌していきます。
 バッハにおいては、多様性の基盤が固定されていたため、多様性の中に安定的世界が感じられましたが、ロクリアン正岡氏の作品では、ベース自体が揺れ動き、依拠すべき安住の地などないことを告げているようです。
 むしろ、世界の本質が「生成」であることを啓示し、常識的・安定的世界の束縛から自在に流動する生成の世界へと脱出する道筋を示唆しているようにも感じられます。
 バッハの作品では、存在物は神の支配下にあり、動植物は受動的に生かされているようです。それに対し、ロクリアン正岡氏の作品からは、「生命のざわめき」が伝わってきます。秩序的世界の殻を破る、能動的な生命力の横溢を感じます。
 管理された秩序から、野性的な渾沌へ。
 あるいは、「野生の自由」への渇望。
 我々は、文明世界の中で、自らを家畜の如くに飼いならし、管理して、安楽な生活を送っています。その対償として、人間以外の自然界に対する感受性や直観力などが鈍化してしまいました。しかし、人間の身体は自然の産物です。その身体に宿っている野生の感覚、自然界との交感力を賦活化したいものです。そうした方向への「脱出」が試みられているように、私には感じ取れました。
 現実の文明システムに縛られた世界で暮らしながら、同時に、別次元の世界を生きている、といった、世界と共存しながらの解放感、を聴き取ったのです。
 そのように聴くと、もう一方のバッハのパッサカリアは、現代文明システムの拘束力を暗示しているようにも思えてきます。
 
 <ピアノパッサカリア「壊教」>の、ロクリアン正岡氏本人による手書きのスコアを拝見すると、調号として、♭が2つ付けられています。通例のシとミについているのではなく、ミとラについているのです。シはナチュラルです。
(公開された印刷譜では、♭が3つついています)
 スケールとして、ハ短調の和声的短音階に対応しています。しかし、そのスケールの中心音は、ドではなく、シとなっています。
[シ-ラ♭-ソ-ファ-ミ♭-レ-ド-シ]という、「黒ロクリア旋法」(ロクリアン正岡氏の命名)を基調としたスコアとなっているのです。
 調性音楽の枠内にとどまりつつも、現代人の感受性の許容範囲内で、バッハ以来の音楽常識枠を破っていこうとしているのでしょう。
 シェーンベルクの12音技法のような正面突破ではありませんが、大バッハの呪縛と格闘し、異なる脱出口を模索している作品と見られます。
 シェーンベルクは一時、「観念の自由」を手にしたかもしれません。それに対し、ロクリアン正岡氏の作品が醸し出しているのは、「野生の自由」の感触です。
 知的構築のみに頼った(と思われる)シェーンベルクとは異なる、自然性に知性を従属させている(と思われる)ロクリアン正岡氏の作曲姿勢が伝わってきます。
 
 さらに、ロクリアン正岡氏のパッサカリアは、常識的で安定的な世界からの離脱が、完全には成就しえない性質の事柄である、と暗示しているように、私は受け止めました。
 生き物は、生物学的適応の拘束、重力の法則から逃れられない。
 それが、8小節の最後で完全5度で落ち着く(ファ→シ♭)ところに現れている、と解釈しました。
 逃れられない束縛条件を自覚しつつも、枠にはめられた窮屈な世界から少しでも脱出したい。そんな想いが込められた作品である、と私は受け止めました。
 
 ロクリアン正岡作曲<ピアノパッサカリア「壊教」1999>のスコアはこちら


関連記事
スポンサーサイト

テーマ - クラシック

ジャンル - 音楽

△page top

△page top

Secret

△page top

トラックバックURL
→http://wood248.blog.fc2.com/tb.php/236-06dafd3c
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

△page top

ブログ

カテゴリ

全記事一覧リスト

最新記事

コメントをどうぞ

最新コメント

最新トラックバック