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作曲と思索の愉しみ

オーケストラ作品の作曲・制作過程や、科学史と音楽史の研究にかかわる記録です。 森さちやの自作曲の公開も行います。 曲と思索を分かち合いたい。

「作曲家-進化」のアナロジー 

Posted on 16:35:50

 
 『生命の音楽』という書物があります。これは、システムズバイオロジーの研究者、デニス・ノーブルの著作です。
 この本の第8章のタイトルが、「作曲家-進化」でした。このタイトルを見て、読む前に私が想像したことと、その章の読後に考察したことを、書き記しておきます。
(デニス・ノーブル、倉智嘉久訳『生命の音楽―ゲノムを超えて―』新曜社、2009年)

 
 その章のタイトルの意味についてですが、すぐさま、生物進化の過程やメカニズムと作曲家の活動とを類比的に見るのだろう、と予想がつきます。その場合、ふたつのタイプのアナロジーがありうる、と気づきました。
 ひとつ目は、生物進化の歴史において、生物が多様化・複雑化してきた過程と、作曲家が管弦楽作品などを創作する過程とを類比的に見る、というアナロジーです。どちらも、新たな「生成」の過程と見ることができます。
 ふたつ目は、音楽の歴史において、古典派からロマン派へと作曲家の作風が移り変わってきたように、作曲家たちの様式の歴史的変遷と、生物の進化とを類比的に見る、というアナロジーです。
 上記の著作の第8章を読んでみると、著者のノーブルが念頭に置いていたのは、私の推測したひとつ目のアナロジーでした。
 しかしながら、ノーブルが展開した議論の一部は、私の想像したふたつ目のアナロジーにも適用できそうだ、と感じました。
 
 「作曲家-進化」の章で、ノーブルが最も言いたかったことは、生物の多様化における遺伝子の使い方です。
 新しい器官や機能が出現する際、生物は新たな遺伝子を導入するのではなく、「古いDNAモジュールの宝箱を使って、新しい組み合わせを形成し、そして古いさまざまな遺伝子に新しい機能を与えるということを行って」きたのです(p.155)。眼や足は、古い遺伝子の使い方を変えて、形成されたのです。
 そのため、「生命には設計ミス、誤った道筋、不完全な妥協が満ちあふれている」わけです。また、生命の論理は「ありうべき最善のものであるとはもはや考えていません」、とノーブルは言います(p.167)
 こうした議論は、遺伝子によって生物の在り方が決定づけられるという「遺伝子決定論」的解釈に対する、異なった見方といえます。遺伝子は変わらなくとも、遺伝子の使い方が変わることにより、形態や機能が変化することがありうる、という点を強調しています。
 かつてドーキンスは、「利己的遺伝子」という遺伝子像を提起しましたが、遺伝子はもはや主役とは言えません。「遺伝子は使用されているというべき」と、ノーブルは主張します(p.157)
 こうした見方は、近年発展を遂げている発生学の新分野、エピジェネティクスでの遺伝子発現に関する知見とも整合的です。
 
 一方、作曲家は、ゼロから新たな作品を紡ぎだすのではなく、様々な楽理に拘束されつつ、過去に使われていた可能性のある音型や和声進行や方法論の新たな組み合わせを探ることにより、作品を構築していく、といった側面が確かにあります。
 生物が古い遺伝子を使いまわすように、作曲家も過去の断片的モチーフなどの使い方や組み合わせを変えて、新たな曲を創作していくのです。
 その意味で、確かに、作曲家の技術的手法と、生物進化における遺伝子活用上のメカニズムは似ています。
 
 さらに、ノーブルが言及しなかった、ふたつ目の観点、音楽史における作曲様式の変遷に対しても、このアナロジーは示唆的です。
 遺伝子の突然変異は、進化には必ずしも不可欠ではない。従来の遺伝子の使い方や組み合わせを変えれば、新しい器官や機能は発現しうる。
 この観点を、20世紀の現代音楽の出現に照らし合わせてみると、調性を否定した12音技法の出現は、過去の音楽的遺伝子を否定し、(突然変異した)新たな素材を導入した事態、とみなせます。しかしながら、必ずしも過去の音楽的遺伝子を全否定しなくとも、音楽の新たな様式は開拓できるでしょう。
 音楽の歴史上に登場した様々な構築素材の使い方や組み合わせを変えることにより、新たな境地が出現する可能性は、十分にあるのではないでしょうか(ロクリアン正岡氏が活用しているロクリア旋法のように)
 さらに言えば、意図的にそうした試みをしなくとも、現代という時代に生きている以上、おのずと、時代思潮に影響された、音楽素材の組み合わせパターンが出現してきている可能性は、否定できないのではないか、と私は感じています。
 音楽活動は、その社会、その時代の中に生きている人間が、世界の気流を浴びながら行っているものです。時代を反映する音楽は、出現するときにはおのずと現れてくる類のものだと思います。
 音楽が世界を描写する芸術であるとするならば、生物界の変遷を導いた原理(古い遺伝子の使いまわし)を作曲の技法的指針として参考にする構想は、理にかなっています。
 その逆の意味で、無調性の音楽は、“新しい遺伝子の導入”に頼りすぎていたように感じられます。新境地の開拓としては無理筋であったのではないでしょうか。突然変異した遺伝子を持つ生き物の多くが、環境に対して不適応を起こし、生存競争から脱落する事態と似ているようです。
 
 最後に、生物進化と音楽の歴史における不完全性をめぐって、思考を巡らせてみます。
 歴史的に形成されてきた音楽のしくみや様式・楽理の中には、妥協の産物とみなせる事柄がいくつも存在します。たとえば、平均律という音律がそうですし、クラリネットやホルンなどの移調楽器の記譜法もそれに該当するでしょう。生命の論理が完全なものとは言えない(とノーブルが指摘している)のと同様に、音楽の論理も、完全である必要はないのかもしれません。
 音楽を生成していく、というのは、試行錯誤を伴う変容過程を表現すること、と捉えると、「音楽は世界を表現する」という命題に実感がわいてきます。変化しつつある世界は未完成であり、それゆえ音楽も未完成であってよいのです。
 また、音楽も世界の在り方と同様に、不完全なものでいい、と了解できれば、バッハの構築作品のような完全性を目指さなければならない、といった呪縛から解放され、より自在に創作に取り組めるようになると感じます。

 生物進化と作曲家との類比のアイデアには、私にとって、派生する様々な思考の種子が孕まれていたのでした。


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