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作曲と思索の愉しみ

オーケストラ作品の作曲・制作過程や、科学史と音楽史の研究にかかわる記録です。 森さちやの自作曲の公開も行います。 曲と思索を分かち合いたい。

キルヒャーの『普遍音樂』に伏在する音律の問題 

Posted on 11:55:27

 
 前回のブログ記事で取り上げた、アタナシウス・キルヒャーの『普遍音樂』について、今回は音律の観点から考察します。
 キルヒャーの生きていた17世紀は、バロック音楽の時代です。ルネッサンス期に主流であった純正律に替わる音律が、模索されていた時代でした。
 キルヒャーのこの著作には、当時の音律の状況が如実に反映されています。

 
 『普遍音樂』を通覧すると、キルヒャーが、ピュタゴラス音律や純正律について、そしてそれらの長所と弱点について、確かな理論的知識を持っていたことがうかがわれます。さらには、当時まだ実用化されていなかった平均律の構想についても、ある程度の知識を有していたことがわかります。
 では、キルヒャーが支持した音律はあったのでしょうか。あるいは、お気に入りの音律は存在したのでしょうか。
 
 この著作の第4巻「比較」において、次のような問いが提起されています。
 
「第五の問い 古代の音楽は今日のものより完全で優れていたのか」
(アタナシウス・キルヒャー、菊池賞訳『普遍音樂―調和と不調和の大いなる術―』工作舎、p.176)
 
 この問いに対して、「今日の音楽[つまり当時のバロック音楽]は、古代のものよりもはるかに高貴、優美、かつ完全である」(p.178)と結論付けています。
 その和声的理由として、「三度、六度[中略]の音程に喜びを見出す」こと、「古代ギリシア人が知っていたのは三種の協和音に過ぎない」ことを挙げています(p.178)
 ピュタゴラス音律では、三度や六度は協和せず、やや濁ります。そのため、ギリシア時代のピュタゴラス音律では、完全協和するのは五度と四度とオクターヴの三種のみとなります。一方、ルネッサンス期に普及した純正律では、長短三度や六度が協和します。
 キルヒャーの上記のコメントは、そうした理論的内容を彼が的確に把握していたことを示していると判断できます。また、これらの言明から、キルヒャーが、純正律を音楽的に高く評価していたらしいことが推察されます。
 また、当時行われていた、1オクターヴあたりのチェンバロの鍵盤数の試行錯誤についても、理解を示しています。
 「そのような共通の[一般的なクラヴィチェンバロの]鍵盤においては、すべての協和音―特に長・短の三度、六度―が見出せるわけではないので、それらの協和音を用いるなら、鍵盤を増やさなければならない」(p.138)
 そして、様々な鍵盤数のチェンバロを、図解入りで紹介しています。1オクターヴ当たり19鍵や、32鍵のものなどが見られます。
 

キルヒャーによる各種鍵盤の図解 

 これらの鍵盤数の試行錯誤は主に、純正律の音律が持つ弱点を克服するためになされていました。その弱点とは、転調した場合に和音が協和せず、二つの音の組み合わせ次第で、かなり耳障りな音になることがある、という事態です。
 ここでも、キルヒャーが、純正律の特徴的な和声である、長短三度と六度を重視していることがわかります。
 
 ところが、第六巻「類比」では、キルヒャーの音律に対する好みに変化が生じたようです。
 前回の記事でも提示した、世界の存在物間の照応一覧表(クリックで画像表示)では、三度の音程に対して、「ディトヌス」という表記がなされています(p.335)
 「ディトヌス」とは、「トヌス」(ピュタゴラス音律の長2度、8:9の比)を重ねた音程で、理論的には64:81という大きな比となり、あまり協和しません。
 キルヒャーはこちらでは、三度に対して、ピュタゴラス音律の音程を当てているのです。
 「ディトヌス」がやや不協和であることをキルヒャーが認識していたのは確実です。
 例えば、味覚との類比において、「渋みはディトヌスと一致する」と述べています。そして、「その味はさほど不味いものではない」とまで語っています(p.359)
 きれいには協和しない、ピュタゴラス音律の三度音程の微妙な感触を、うまく言い当てていると感じます。
 その「ディトヌス」が、キルヒャーの音楽的世界観の中核をなすであろう存在物間の照応一覧表において、採用されているのです。
 つまり、第六巻「類比」では、ピュタゴラス音律が重用されているのです。
 
 ここまで検討したことから、キルヒャーの音律に対する姿勢には、一貫性がないように映ります。しかしながら、第三巻や第四巻と、第六巻とでは、音律が関わりを持つ文脈が違っています。その点を考慮に入れると、キルヒャーの表面的な不整合を理解できるかもしれません。
 第三巻「楽器」や第四巻「比較」では、現実の音楽実践の場における和声を考察していました。それに対し、第六巻「類比」では、この世界の在り方が音楽的な存在様式として理解できる、というキルヒャーの音楽的世界観を語っています。
 この世界には、調和も不調和もあるでしょう。そして、渋味のように、きれいには協和しないがそれなりの味を出す現象もあることでしよう。
 おそらくキルヒャーは、この世界の調和と不調和の中間項のような、微妙な不協和の味わいも存在することを、「ディトヌス」で表現したかったのかもしれません。協和の感覚にグラデーションを導入するには、協和音が明確な純正律の音階よりも、やや不協和な和声が得られるピュタゴラス音律の方が、世界模型のアナロジーとして的確である、と判断したのでしょう。
 
 上記の最後の推論は、私の読み込みすぎかもしれませんが、そのような読み込みを許容する懐の深さが、キルヒャーの『普遍音樂』にはあるのです。


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