作曲と思索の愉しみ
オーケストラ作品の作曲・制作過程や、科学史と音楽史の研究にかかわる記録です。 森さちやの自作曲の公開も行います。 曲と思索を分かち合いたい。
2017/06/24 Sat.
バイオテクノロジー革命は、超人類の時代を導くか
Posted on 10:26:14
20世紀後半の遺伝子工学の進展に続き、21世紀には、ヒトゲノムの解読がなされ、人間に対しても技術的には「ゲノム編集」を適用可能な時代状況が到来してきました。
人間を「生物学的に改変」できる可能性が提示されつつあります。
この状況は、近代的な「人間」の概念に修正・変更を迫ることになるのでしょうか。
倫理的な観点からの適否は別にして、技術的には、人間の遺伝子配列を意図的に改変することが可能になってきました。知能や身体能力、容姿など、遺伝的要因に大きく左右される人間の能力・形質に対して、改良・増強していきたい、という願望が出てくることでしょう。
また、老化のメカニズムの研究や、がんなどの命に係わる病気に対する医学的治療法の開発も進み、老化の進行速度は遅くなり、平均寿命はまだまだ延びていくでしょう。今までならば助からなかった致命的な病気が、今後は風邪を引いた程度の出来事となる可能性も出てきています。
バイオテクノロジー革命と深く関わるこうした状況に対して、ドイツの哲学者ペーター・スローターダイクは「ポスト人間主義」の時代の到来と見ているようです。また、スウェーデン出身の哲学者ニック・ボストロムは、人間の諸能力を遺伝子工学的に向上させようとする指向性に対して「トランスヒューマニズム(人間超越主義)」と呼んで、擁護しているようです(この段落の内容については、岡本裕一朗『いま世界の哲学者が考えていること』ダイヤモンド社、2016年、第3章、を参考にしました)。
では、このような潮流は、従来の「人間」像を変えていくことになるのでしょうか。「ポストヒューマン」「超人類」の時代の到来、と捉えてよいのでしょうか。
ここから先は、私の個人的見解を述べてみたいと思います。
現代人のもっている「人間」の概念は、かつてミッシェル・フーコーが洞察したように、近代という時代思潮と不可分に結びついています。「人間中心」に世界を理解する、「自我の欲望充足」を肯定する、「進歩」を善きこととして歓迎する、といった世界観の上に、近代的な「人間」像が成立しています。
先進国に住み、物質文明の恩恵を享受している人々の大部分は、そのような「近代的人間」の世界観を共有しているでしょう。
さて、バイオテクノロジー革命や医療技術の進歩は、望みの知能や身体がほしい、「不老長寿」望みたい、という「自我の欲望」、つまり「近代的人間」の願望・意欲に駆動されてきたことは、言うまでもないでしょう。
ということは、仮に人々の生物学的諸能力が向上したとしても、世界観や生きる姿勢自体は「近代的人間」のままなのではないでしょうか。思考の枠組は依然として、「近代」に準拠し続けているのではないでしょうか。
それゆえ、そのような将来の人間集団に対して、「ポストヒューマン」あるいは「超人類」というような形容を与えることに対して、私はかなりの抵抗を感じます。
むしろ、自我の拡大欲求の「浅ましさ」を自覚し、不自然な「不老長寿」の願望の「醜さ」を明察するような知性こそが、「近代的人間」を超える「ポストヒューマン」として想い描かれます(そのような方向へと人間が「超えて」いくヴィジョンは、もうすでに2500年ほど前から、仏陀らによって提示されていました)。
若さや長寿を望む「自己中心性」に気づき、その渇望から解放されたいものです。
物質的にも、生き物としても、しがみつかない生き方―無為自然の生き方―をしたい、と私は思います。
もし「超人類」の時代が到来するとするならば、身体的改変によるものではなく、人間の「知性」の質的転換こそがその本質となるものでありましょう。
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