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作曲と思索の愉しみ

オーケストラ作品の作曲・制作過程や、科学史と音楽史の研究にかかわる記録です。 森さちやの自作曲の公開も行います。 曲と思索を分かち合いたい。

生物機械論と自然界 

Posted on 08:57:51

 
 17世紀の科学革命の時代以降、近代科学においては、それ以前の生命観とは大きく異なる、「生物機械論」が広まっていきました。
 生き物は精巧な機械仕掛けであり、物理化学的法則に従う存在として理解できる、といった考え方です。

 
 この「生物機械論」的生命観の普及に大きく貢献したのが、17世紀前半に活躍した哲学者、R・デカルトや、同時代の自然学者、A・ボレリ、さらには18世紀の研究者、J・ラ・メトリでした。
 デカルトは、同時代の医学者、W・ハーヴィーにより明らかにされた、血液循環の知見により、自身の考え方に間違いないと確信を持つようになったようです。
 デカルトは、ハーヴィーの学説を自分なりに咀嚼したうえで、血液循環を機械的・水力学的過程であるとみなしています(1637年の『方法序説』において)。それと同様に、身体の運動はすべて、機械の物理的法則に従う運動として捉えられると、デカルトは考察していったのでしょう。
 さて、20世紀半ば以降、分子生物学の華々しい成果のおかげで、生体の細胞内の分子レベルでの挙動について、遺伝子DNAの挙動を中心に、かなりの細部にいたるまで理解できるようになってきました。
 そのため、「生物機械論は生命観として妥当である」とか、「生き物が機械的存在であることが分子生物学により確証された」といった言明が出回るようになりました。
 こうした発言は、そこまで言ってしまうとさすがに言い過ぎではないか、と私には感じられます。それらは発言者の依って立つ研究分野の正当化のためになされる場合が多く、イデオロギー的言明の色あいがありそうです。
 実情は、「生物機械論」が近代科学の方法論と相性が良かった、ということなのではないでしょうか。
 17世紀以降の近代科学では、実証主義と数量化が重んじられるようになりました。実験や観察に基づき、「再現可能性」のある現象に関して、数学的法則性や物理化学的秩序を抽出していく、といった方向性です。
 言い換えれば、近代の科学的探究においては、自然界や生物界のなかの「機械的側面」に光を当て、そうした方法で摘出できる部分についての理解を深めていった、ということです。
 自然界や生物界には、機械として理解できる側面は確かにあります。しかし、だからといって、自然や生物が機械と等しい、とは言えないでしょう。
 機械論の枠組からは、対象世界の「画一的・普遍的側面」を把握しやすいですが、自然界・生物界には、「多様性や個性」が充満しています。そして、1回限りの新奇な出来事がしばしば生起します。後者の側の、機械として理解しづらい領域については、機械論的方法論は必ずしも有効とは限りません。
 結局、「生物機械論」とは、適否を判定すべき命題ではなく、「研究を進めるための準拠枠」である、と考えられます。生物学の結論ではなく、「前提」なのです。
 
 ところで、ルネサンス期の万能人、レオナルド・ダ・ヴィンチは、機械工学者でもありました。飛行機や潜水艦、ヘリコプターやエレベーターなどの設計図を描いています。
 レオナルドは、鳥の飛ぶ様子を観察・研究して飛行機を設計し、魚の泳ぎを力学的に解析して潜水艦の図面を引きました。
 ということは、この場合、機械は動物をモデルに考案されたのです。
 17世紀の科学革命の時代の最も代表的なメカニズムであった、機械時計に関しても、事情は似ています。
 機械時計は、天体の運行を模して、作成されました。こちらの場合も、我々を取り巻く外界に、モデルを見出していたのです。
 歴史的順序に沿って整理しなおしてみましょう。
 まず、機械は、人間の思考によって、自然界の一部をモデルにして、その部分を一つのシステムの中に封じ込めたものでありました。
 人間の技術は、自然界のなかの、わかりやすい部分、画一的・普遍的部分から順に、機械化を進めてきました。
 そして自然科学は、その機械をお手本にして、自然界を理解しようとしてきたのです。 したがって、「生物機械論」における生物のモデルは機械でしたが、その機械の見本は動物や自然界だったのです。
 循環論法と言えば、その通りなのですが、それゆえ、人間の理解度の進展との相性が良いわけです。
 逆に、機械化しにくい(されえない)自然の部分は、理解されにくいまま残されがちとなるでしょう。生物の多様性や個性が新たに出現してくる動向(同所的種分岐や、個体発生過程の変更など)は、シンプルな機械的説明をするのは困難です。DNAですべてを説明するような、還元主義的解釈もありえますが、説得力があるとは必ずしも言えません。
 つまり、「生物機械論」の枠組から外れる領域、収まりにくい領域については、その準拠枠に依拠する科学的探究の対象になりづらいのです。さらに、そうした領域があること自体が、認知されにくくなっていると思われます。
 
 まとめます。
 「生物機械論」は、科学的探究のための「前提」となる準拠枠であります。現代生物学の結論の類ではありません。実績があるため、その枠組の有効性は疑いありませんが、それに伴う、気づきにくい短所もある、ということです。


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