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作曲と思索の愉しみ

オーケストラ作品の作曲・制作過程や、科学史と音楽史の研究にかかわる記録です。 森さちやの自作曲の公開も行います。 曲と思索を分かち合いたい。

生物進化論と地球温暖化説(4)―固定的自然観の影響― 

Posted on 09:13:43

 
 シリーズの4回目です。
 この二つの学説と論争をめぐる、いくつかの共通点を指摘しています。
 前回は、科学論争の展開期にしばしば起こる「イデオロギーの介入」という事態が、どちらの事例でもみられたことを確認しました。
 今回も同様に、論争展開期に顕在化しがちな、「固定的自然観」の作用について、考察していきます。

 
固定的自然観の影響
 
 過去の代表的な科学論争の中には、論争の一方の陣営において、強固な信念である「固定的自然観」が大きな影響力を持っていた事例がいくつかあります。
 「固定的自然観」とは、「根拠なく、宇宙・地球・自然界・生物界を時間的・空間的に、不変・不動の存在と思い込む観念」という意味です。この観念は、常識的・日常的自然観に根差しているため、自覚しにくい暗黙の了解でもあります。
 
 生物進化が、地球の歴史における事実であることは、ダーウィンの時代、19世紀にはなかなか受容されませんでした。その大きな理由が、よく知られるように、キリスト教の創造論が介入していたからです。
 確かにこの論争では、科学に対する宗教の介入、という図式のみが注目されがちです。しかしながら、事情はもう少し込み入っています。
 進化論が登場する直前の18世紀、啓蒙主義の時代、キリスト教の信仰から解放された啓蒙思想家たちの間でも、「種の不変性」という固定的生物観が依然としてある程度共有されていました。
 
日常的な常識では、動物や植物の種は、変化しません。トンビが鷹を産むことはなく、カエルの産んだオタマジャクシは、やがてカエルになります。「種の不変性」とは、そうした生き物に対する素朴で日常的な理解に根差しているものです。
 
 18世紀は、近代的分類学が成立した時代でもあります。「種の不変性」を疑っていては、分類は成立しません。
 しばしば、進化論は分類学から誕生した、と語られますが、それは一つの側面にすぎません。分類学によって動植物の類縁関係が提示されたため、その由来を考察することにより、進化論的思考が育まれたのは確かです。
 しかしその一方で、近代分類学の成立によって、「種の不変性」が強調され、常識的・日常的見方に根差した「固定的自然観」を後押ししたことを見逃してはならないでしょう。
 M.フーコーは、18世紀の啓蒙主義の時代を、「タブロー」の時代と評しています(ミッシェル・フーコー、渡辺一民・佐々木明訳『言葉と物―人文科学の考古学―』新潮社、1974年、p.100)
 知識の一覧表(タブロー)を作ることが、当時の学問の最優先課題であったことを、この言葉は示唆しています。ディドロやダランベールらによって編纂された『百科全書』(1751-80)や、ビュフォンの『博物誌』(1749-88)は、その代表的成果です。
 近代分類学がこの時代に確立したのも、その時代思潮と連動していたとみることができます。
 啓蒙思想には、「進歩の思想」や「神離れ」の傾向があったため、一方では進化論的思考を促しましたが、啓蒙思想の「秩序の提示」への志向性という側面は、進化論的発想を抑圧する方向に作用したことでしょう。
 つまり、固定的な知識の秩序体系への強い指向性が、常識的・日常的見方に根差した「固定的自然観」を後押ししていたといえます。
 このように、生物進化論の発想が育まれていた時代に後ろ向きに作用していた「固定的自然観」の内実を吟味してみると、キリスト教的世界像に加えて、近代分類学の確立に伴う「種の不変性」と、啓蒙思想における「秩序の提示」への指向性も、無視できない負の役割を演じていた、と考えられます。
 
 さて、もう一方の地球温暖化の問題でも、「固定的自然観」の影響が、冷静な科学的議論を歪める方向に作用していたであろうと、私には思われます。
 20世紀に地球の平均気温が上昇してきたという事実が、大変な問題だ、と認識されている理由は、一つは、そのままの傾向がもし続けば人類の文明社会に多大なる悪影響が懸念されるから、です(脅しかもしれませんが)
 しかしながら、理由はそれだけではないでしょう。
 本来、地球の平均気温は、長期的にもほぼ一定に保たれているのが正常なはずである、といった、地球の気候に対する根拠なき思い込みがあるからでしょう。
 毎年毎年、春夏秋冬が訪れ、1年のサイクルで季節が進行し、気候が移り変わっていきます。そして1年後には再び、前の年と同様な季節が戻ってきます。その繰り返しに慣れている私たちは、気候というものは毎年毎年同様な周期が繰り返される、と素朴な日常的感覚として思い込んでいます。
 それが、「固定的自然観」であります。「種の不変性」の思い込みに倣って、「気候の不変性」と呼んでおきましょう。
 無意識のうちに形成されている「正常な気候変動」から、20世紀は逸脱していたように思われました。それゆえ、きっと我々人類が、地球に対して何か良くないことをしてしまったに違いない、といった思考の流れを促進し、地球温暖化問題と環境保護思想とのリンクを訝しく思わなくなったのではないでしょうか。
 ところが、古気候学の成果をみると、数百年、数千年の単位では、地球の平均気温は周期的に変動してきたことがわかります。
 ヨーロッパの中世や日本の平安・鎌倉時代は、現代よりも若干温かい「温暖期」であったようです。その後、近代、あるいは日本の江戸時代は、「小氷期」と呼ばれる寒冷期でありました。20世紀の温暖化は、百年単位での揺れ戻し、中世温暖期への復帰に相当する自然的変動として理解できる、という見方もあります。
 少なくとも、「気候の不変性」は根拠なき信念の類です。
 日常的な「固定的自然観」の無自覚な影響のもと、20世紀の気候変動を「正常ではない」と早合点してしまい、自然的変動が主原因である可能性に対する考慮が十分になされなかったのではないか、そのため、問題を大げさに考えてしまいがちになってしまったのではないか。私の眼にはそのように映っています(人為的な要因の作用がない、と言っているわけではありません。念のため)
 20世紀の地球温暖化の事実については、科学的に確定可能ですが、それが正常か異常か、という判別を下すのは困難でしょう。
 ところが、無自覚な「気候の不変性」という固定観念のもと、一方的に、20世紀は「異常」な気温上昇があった、と速断してしまったのではないでしょうか。
 
 進化の事実問題における論争では、「固定的自然観」が、宗教的信念や時代思潮とも連動し、科学的考察を歪めていました。それと同様に、地球温暖化の問題では、「固定的自然観」の影響により、根拠なく「大問題」と認知され、重大な環境問題と了解されてしまったのです(自然的変動が主要因であるならば、環境問題という色彩は薄くなります)
 
 「固定的自然観」は、人間のもつ無自覚な思考の傾向性ですが、自然科学の歴史の歩みにつれて、この自然観は部分的に少しずつ克服されてきました(地動説や、大陸移動説の受容など)
 その意味で、「気候の不変性」という無自覚な「固定的自然観」に対しても、根拠なき思い込みであったと了解して、人類の知的水準を、また一歩先へと進めていきたいものです。
 結局、生物界も自然界も、見方次第では「諸行無常」なのです。


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