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作曲と思索の愉しみ

オーケストラ作品の作曲・制作過程や、科学史と音楽史の研究にかかわる記録です。 森さちやの自作曲の公開も行います。 曲と思索を分かち合いたい。

生物進化論と地球温暖化説(3)―イデオロギーの介入― 

Posted on 12:14:19

 
 シリーズの3回目です。
 この二つの学説と論争をめぐる、いくつかの共通点を指摘するのがテーマです。
 前回は、「再現実験が困難であること」をめぐる議論をしました。
 今回は、科学論争の展開期にしばしば起こる「イデオロギーの介入」という事態が、どちらの事例でもみられたことを確認していきます。

 
イデオロギーの介入
 
 考察の前提として、「イデオロギー」という用語を、ここでは、「科学的には十分な根拠を伴わない信念・固定観念」の意味で用いることにします。

 さて、生物進化論が登場した19世紀半ばにおいては、「事実問題」をめぐる論争にも、「要因論」をめぐる論争にも、宗教的信念の影響がみられました。
 まず、進化の「事実」を頑なに認めようとしなかった人々がいました。『創世記』の記述に基づくキリスト教の創造論を疑わない信者たちです。動物も植物も、神が現在の生き物の形に創造した、という宗教的信念が、生物進化の事実の受容を妨げてきました。
 また、科学的根拠に基づいて生物進化の事実を疑うわけにはいかないと了解したキリスト教徒でも、「進化は神の導きによるものだ」として、科学的な要因論の議論を受け付けない、という場合もありました。つまり、「要因論争」のレベルでも、キリスト教的信念の影響力があったのです。
 このように、生物進化論の論争展開期において、キリスト教的信念という「イデオロギー」が、科学的な議論を妨げる方向に介入したのでした。
 
 次に、もう一方の地球温暖化説では、「要因論」をめぐる論争に、初期のころから「環境保護思想」が関与しています。
 通説といえる「CO2主原因説」が一般に流布し始めたのは、1988年のハンセン博士によるアメリカ議会上院の公聴会での説明がきっかけでした。地球温暖化の主原因は人為的に排出されたCO2の可能性が高いと見做され、地球温暖化が「環境問題」であると認知されるようになりました。
 遡ると、気象学者によるデータに基づくCO2主原因説は、1960年頃にすでに登場しています。1950年代の後半から大気中のCO2濃度の継続測定が開始され、その濃度上昇と人間の産業活動との関連が疑われました。1963年には、気象学者キーリングらにより、大気中のCO2濃度の増大により将来の地球の気温の上昇が懸念される、との内容の報告が、民間の自然保護財団主催の会合でなされました。これが、データに基づくCO2主原因説が登場した最初期の一場面です。
 そして、この学説を支持する研究者たちは初期の段階から、研究費獲得の目的とも絡んで、環境保護の問題と結びついていきました(S.R.ワート、増田耕一ほか訳『温暖化の<発見>とは何か』みすず書房、2005年、p.59)
 つまり、この通説は、学説の細部にいたる丁寧な検証が進行するかなり前の段階から、「環境保護思想」という「イデオロギーの介入」を許容していたのです。
 
環境保護の理念それ自体は、非難される筋合いのものではありませんが、あくまで科学外の価値観であり、科学的議論を歪める方向に影響を及ぼしてきた可能性があります。「環境守るべきである」という価値観自体は、科学的に導き出せないし、正し考え方であると証明できるものでもありません。建前上、科学は価値中立であるべきであり、環境保護思想との結びつきは、科学外の価値観である「イデオロギーの介入」と捉えるべきでしょう。
 
 現在でも、科学者集団内部はともかく、マスコミや政策決定の局面で登場する一般向けの通説では、環境保護の観点を絡めて学説の正当性を説明するのがごく当たり前となっています。
 (2)の回で検討したように、CO2主原因説は定説とは言えません。必ずしも科学的根拠が十分とはいえないCO2主原因説が、科学者集団内部でも優勢な学説になっているのはおそらく、世論の圧倒的な支持が大きく作用していると思われます。
 ではなぜ多くの人々が支持したのでしょうか。私の考えでは、「政治家や経済界やマスコミや気象学者や一般市民らの思惑がたまたま一致し、批判的視点が形成されず、通説が一方的に受容されやすい状況となっていたから」というのが答えです。
 CO2主原因説を支持する政治家や経済界にとって、原子力発電推進の大義名分が得られ、国際的には開発途上国の発展をコントロールする政治的カードとしても使うことができます。多くの市民やマスコミは、化石燃料の浪費や過去の森林破壊に対する罪悪感が多少ともあるため、CO2主原因説を批判することなく受容し、正義の側に回っていったのでしょう。
 CO2主原因説を批判することは、環境保護に反する、と短絡的に誤解されてしまいがちなため、批判しづらいという側面があります。さらに気象学者を中心とする関連分野の科学者は、CO2主原因説を支持することにより、研究費や発表の場を確保しやすくなることでしょう。逆に批判的立場に立つと、学者生命を脅かす場合もあるかもしれません。
 こうした各人の思惑が同一方向を向いたため、通説は世論の圧倒的支持を得たのでしょう。
 さらに日本の場合、同調圧力や、雰囲気に呑まれやすいことも作用していた可能性があるでしょう。
 論争への「環境保護思想」という「イデオロギーの介入」とは、このような内容を総合的に含んだものです。こうした内容が、冷静・客観的な議論を妨げ、考察を歪曲してきた可能性がある、というのが私の見解です。
 それは、生物進化の論争において、キリスト教的世界観が介入してきた事態とよく似ています。
 『聖書』の記述を絶対視するキリスト教信者が、自分たちの信仰を脅かしかねない進化の事実を拒絶したように、環境保護論者や学説への同調者たちは、自分たちの目的に叶った科学理論を支持した、と私の眼には映ります。
 
 「環境保護思想」の介入によって、研究が促進されたり学説の普及が早められたりするようなプラスの影響もあったかもしれません。しかしながら、冷静な科学的議論を歪め、自由な発想や客観的立場からの視点を困難にしかねないマイナスの影響が多大であったのではないかと、私は考えます。


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