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作曲と思索の愉しみ

オーケストラ作品の作曲・制作過程や、科学史と音楽史の研究にかかわる記録です。 森さちやの自作曲の公開も行います。 曲と思索を分かち合いたい。

修行の罠と道元の言葉/修行の循環構造と修行の意味 

Posted on 10:58:42


 以前のブログ記事、<作曲は何と似ているか(3)武道の修練や宗教上の修行と似ている>で示した共通点、作曲も修行も充実した「生きている時間」の体験である、という共通点に対して、冨永秀樹さんから、興味深いご指摘をメールでいただきました。
 
 今回は、その指摘に触発されて紡いだ、私の思索の断片を、記してみようと思います。
 
 そのメールの指摘とは、次のような趣旨のものです。
 
 メールの指摘の要旨
 
「武道の修練や宗教上の修行、作曲活動には、生命の充実があるだろうが、その修行に必然的に伴う自己矛盾がある。自身の弱さ・醜さと直面したり、負のエネルギーに巻き込まれたり、自尊(他方での他者蔑視)の感情が生まれたりしてしまう――」 
  
 [メールの指摘、ここまで]
 

 いろいろ考えを廻らすうちに、修行全般に対する、本質を衝いた、重要な指摘だと諒解してきました。この点は、まさに私が見逃していた点、あるいは、あえて見ようとしなかった点だったと思います。
 
 「修行の待ち受ける罠」あるいは「自己矛盾」と遭遇するのは、二つの異なる場合がありうると思います。
 
A.修行の指向性が不適切な場合、あるいは不純な動機に導かれている場合。
 
B.本来的修行の在り方に適合するが故に、必然的に遭遇する場合。
 
 どちらに該当するか判断しかねる事例もありそうですが、とりあえず便宜的に二つに分けて、考察を進めていきます。
 
 Aの場合について
 
  禅の修行では、「野狐禅」という言葉があるくらいで、ひとりよがりの思い上がった境地を戒めています。
 また、作曲に没入している際にも、自分の曲に対する自惚れ意識が湧いてきたりしますし、武道の修練でもおそらく、自らの技法に対して、独善的な思い上がりの意識を抱くことがありそうです。
 
 このような“修行の罠”に嵌らないようにするには、あるいは、嵌ったことを自覚し、望ましい方向に転ずるには、どうしたらよいか。
 明確で論理的に割り切れるような回答を探るのは困難でしょうが、望ましい方向性のヒントはありそうに思います。
 こうした事柄と歴史的に格闘してきた、大乗仏教の、世界観と目指す境地が参考になると思います。
 
(1) 汎神論的世界観を、おのずと実感できる境地に向かっているかどうか。
 
 これが、修行の方向性が誤っていないか判断するひとつの目安になると私は考えます。
 「一切衆生悉有仏性」あるいは「山川草木悉皆成仏」といった、天台本覚思想の核心を実感できる方向性であるならば、自尊感情と、その裏返しである他者蔑視の感情に絡め取られることは少なくなるでしょう。なぜなら、すべての存在に、仏様が宿っていると諒解するのですから。
 また、自身の内部にも宿る仏様の胚種を実感できるようになれば、自己の弱さ・醜さと向き合い、克服していくことの困難さも軽減されるでしょう。
 
(2) 社会的価値観、社会的自我への執着から解放される方向性かどうか。
 
 修行により得られてくる境地・視座を、社会的な名誉や金銭や地位に関連付けようとするねじれた欲望がある限り、修行の方向性も歪み、社会的自我との葛藤、自己矛盾も膨れ上がっていくでしょう。
 逆に、後天的に身に着けた社会的よろい(特定の職業や、専門家であることなど)を、仮のものと感じ、自在に着脱可能な衣服の如く捉えられるようになれば、修行の待ち受けている罠に掬われてしまう惧れを低減できそうです。
 
 上記の2点を含んだ形で、修行のあり方の方向性を提示した、道元の、有名な、すばらしい言葉があります。『正法眼蔵』の一節です
 私は、この言葉を、学生時代にはノートに書き写して、何度も復唱していました。
 [たまたま、2/9の東京新聞に、「道元に学ぶ生き方・下」(頼住光子さん執筆)という記事があり、学生時代に感激した言葉を思い出し、また、この言葉は、このテーマに対するひとつの回答になりうる、と感じたのでした]
 
「仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは自己をわするるなり」
 
 「自己をならふ」とは、自我の本質的構造を諒解することであり、「自己を忘るる」とは、社会的自我への執着から解放される、ということでしょう。そのことが、自己の探究であり、仏道修行である、といっているように理解できます。
 続いて、
 
「自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」
 
 「万法に証せらるる」とは、世界と繋がりあっている実感であり、「自己と他己の身心の脱落」とは、自分と他者や取り巻く世界とは本来別々のものではなく、互いに繋がりあっていることを、執着がなくなることによって悟る、ということだろうと理解できます。
 背後には、大乗仏教的な―華厳の事事無礙法界や真言密教の曼荼羅のような―、汎神論的世界観が見え隠れしています。
 (道元の言葉の解釈については、頼住さんの解説記事を参考にしたうえで、私なりの見解を書きました)
 
 修行の持つ自己矛盾を細部まで知り尽くしていただろう道元の言葉は、修行に踏み込むわれわれにとってのよき指針になりうるだろう。
 そう考えたのでした。
 
 Bの場合について
 
 本来的修行の在り方に適合するが故に、否応なく立ち向かうことになる“壁”と、その向こう側に控える非日常的な異世界がありそうなことは、見当がつきます。
 
 芸術の領域(文学作品や音楽の創造など)では、闇の世界、負のエネルギーとあえて格闘する、ということがあると思います。そして、その世界と触れ合うことが、作品に深みを増すのだと思われます。
 シェイクスピアやギリシャ悲劇や古典的文学作品の多くは、この観点からよりよく理解できますし、ベートーヴェンの交響曲第5番≪運命≫や、その系譜の交響曲もそうでしょう。
 
 闇の世界に呑み込まれ、夜の海を航海し、死と再生を遂げる、という神話的構成を内包している一連の作品群が存在します。
 (こちらの方面の話は、ブログ記事<“神話的構成”をもつ交響曲―≪運命≫とその系譜の作品群―>を参照してください)
 
 身体や潜在意識の感受性が高まった状態で、闇の世界の原型的構図―神話的構成―を汲み取ってくる。
 そのようなことが、芸術作品の創造には伴っているように感じます。
 
 それに対して、武道の修練や宗教上の修行は、そうした闇の世界をいかにして潜り抜けるか、突破するか、そしてさらに、その先の(奥の)世界へと到達することに、力点が置かれているように思われます。
 ただし、こちらの修行に関しても、到達目標は方便であって、その過程こそが人間の成長にとって重要な本質的事柄であるのかもしれません。
 
 AとBとの関係
 
 上記の考察では、便宜的に二つの場合を分けましたが、実際のところ、明確に分けられるものではなさそうです。
 論理的には分けられるのですが、修行というのは時間的経過とともに推移する“生き物”なので、AとBの状態―修行の方向性を誤信している、あるいは適切である状態―を行ったり来たりするのが現実でしょう。
 
 修行の過程で、必然的に遭遇する“修行の罠”によって、いつの間にか、方向性がねじれてきてしまう。それに気付いて、方向性を修正する。
 この修正も、修行の一環であり、自らの修行の方向性の歪みに対する覚醒が要求される、といえます。そして、そのためにも、世界や自己の内面に対する感受性を高めることが必須となってきます。
 したがって、ここに「修行に内在する循環構造」が立ち現れます。
 
 修行には覚醒が要求され、覚醒のためには修行が必須となる。
 
 ここでいう「覚醒」とは、「魂の健全性」あるいは「生命全体の充実」と言い換えられる事柄です。
 修行とは、この構造に自らを投げ入れること、ということもできそうです。
 
 では、何のために修行はなされるのでしょうか。修行の意味は何なのでしょうか。
 それぞれの修行(武道、宗教、作曲…)には、到達目標があるでしょうが、それはあくまで「方便」であって、修行とは「過程そのもの」である、と私には思えてなりません。
 修行の過程に心身を没入させること自体が、人間が充全に生きるために、もっとも肝要なことなのではないでしょうか。
 
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