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作曲と思索の愉しみ

オーケストラ作品の作曲・制作過程や、科学史と音楽史の研究にかかわる記録です。 森さちやの自作曲の公開も行います。 曲と思索を分かち合いたい。

レヴィ=ストロースの音楽論(6)―人間の両面性― 

Posted on 08:49:47

 
 このシリーズの(1)から(5)でみてきたような、レヴィ=ストロースの神話と音楽に関する洞察は、この二つの領域のみにとどまるものではありません。人類の行っている文化的活動のいくつかの分野にも、十分適用可能な見解であろうと思われます。

 
 音楽は神話から、人類学的な機能を引き継いだ。その機能とは、人類が自然から文化へと移行してきたことを想起させ、「人間の両面性」の自覚を促し、「自然と文化の再統合」への志向性の種をまくことである。
 このような内容を、このブログの「レヴィ=ストロースの音楽論」で検討してきました。
 音楽という芸術活動は確かに、いくつもの人間の「両面性」が関わっています。論理的な側面と情緒的な側面、分析的知性の活動と全体を把握する直観的知性の働き、意識と無意識がともに活性化されること、秩序ある世界とカオス的世界の両者に惹きつけられること、などです。これらの両面性は、聴く際にも、演奏や作曲をする際にも出現してきます。
 それゆえ、レヴィ=ストロースが音楽に期待した役割は、現在でも機能しつつあるとみてよいでしょう。
 しかしながら、人間の「両面性」が賦活され、「自然と文化の再統合」への志向が刺激されるのは、神話と音楽に限られるわけではないと考えられます。芸術や学問や宗教活動などの特定の側面にも、こうした志向性は宿っているのではないでしょうか。
 
 音楽以外の芸術、絵画や彫刻や文学や詩などでも、自然と文化の両面、さらにいくつもの対比的な側面が表現されています。一つの作品の中に重層的に両面性が宿っている場合もあることでしょう。また、多くの芸術作品をトータルに把握すれば、様々な二項対立が複層的に生起していることが了解されるでしょう。
 人類学者で思想家の中沢新一氏は、『芸術人類学』において、「芸術は人類の知的活動のもっとも古い層、人類の心に今も確実に残されている野生の野に触れている」と述べています。そして、芸術人類学の展望として、「私たちは人類がまだ、自分の心に野生の野を抱えていて、いまではすでに失われてしまったように思われている、その野を開く鍵を再発見することがじつはいまでも可能であることを、確実な仕方であきらかにしてみせたい」と抱負を語っています。
(中沢新一『芸術人類学』みすず書房、2006年、pp.25-26)
 この中沢氏のこの宣言は、レヴィ=ストロースの音楽論と共鳴し、その延長上にある言明といえます。
 
 芸術のみならず、学問のいくつかの領域においても、通底する方向性を確認できます。
 レヴィ=ストロースの音楽論(5)でも触れたように、構造主義人類学という学問の目指す境地として、レヴィ=ストロース本人が、「自然と文化との統合」を掲げています。彼の人類学は、“未開”とされてきた民族の思考が、西洋文明の合理的思考と比べて劣っているのではなく、異なるタイプの合理性や体系性を宿した「野生の思考」であることを示しました。そして「野生の思考」こそが人類太古からの普遍的思考であるとみなしたのです。その反作用として、西洋の合理主義の特殊性・一面性や限界が逆照射されました。彼の探究視座は、人間の知性の多面性を顕わにしたのです。
(レヴィ=ストロース、大橋保夫訳『野生の思考』みすず書房、1976年)
 また、私の専門分野である、科学史・科学哲学においても、連動する研究動向が見出されます。
 科学的発見には、意識されない「暗黙知」の働きが関与していることが往々にしてあることが、認知されるようになってきました(マイケル・ポランニー、高橋 勇夫訳『暗黙知の次元』筑摩書房、2003年)
 あるいは、T.クーンの「パラダイム論」における重要な知見の一つに、異なる枠組間での科学的理論は「共約不可能」であり、優劣をつけられない、という見方があります(トーマス・クーン、中山茂訳『科学革命の構造』みすず書房、1971年)。この相対主義的科学観では、原理的にパラダイム間の進歩は判定不能なため、進歩史観は認められません。文化人類学における、諸民族に対する相対主義的見方と連なる見解です。
 さらに、近代科学の勃興期において、ガリレオやデカルトらが、世界を知るという営みを「数学的に把握可能な課題」に限定する戦略を意図的に採用していたこと、そのことにより自然に対する理解が一面的になってしまったこと、が指摘されています(例えば、大森荘蔵『知の構築とその呪縛』筑摩書房、1994年)
 科学に対する合理主義的・進歩史観的見方には、疑問符が突きつけられつつある、というのがクーン以降の科学哲学にみられる一つの趨勢といえるでしょう。
 
 宗教においても、仏教思想では、宗派の違いにかかわらず、「分別知」と「無分別智」とを対置します。主客を分離し客体を対象化していく分析的思考である「分別知」の限界を知り、全体的・直観的に把握されるであろう、対立を超えた高次の智慧である「無分別智」の境地が提起されます。
 この構図も、自然と文化の両面性を認知し、その断絶を乗り越えようとする営みの一形態、と捉えることもできるでしょう。
 
 このように、芸術や学問や宗教の一部には、ある共通の志向性があります。それは、人間の「両面性」の認知と、野生的・直観的・全体的な知性や感受性の復権への展望です。そして、こうした方向性への見通しは、すでにレヴィ=ストロースによって、神話と音楽との比較検討によって暗示されていた事柄でありました。
 
 ところで、ここでの考察のように、様々な領野へと視座構造を連動・飛び火させていく流儀は、レヴィ=ストロースの意に叶っている、と私には思われます。彼が次のような見解を語っているからです。
 
「意味する(signifier)という動詞が何を意味するかを一般的に考えてみると、それが常に、何か別の領域に、我々が探している意味の形式的対応物を見つけ出す、ということを意味していることに気付くのです」(レヴィ=ストロース、ディディエ・エリポン、竹内信夫訳『遠近の回想』みすず書房、2008年、p.254)
「神話的思考は、何か問題にぶつかると、それを他の多くの問題と並行するものだと考えるのです」(同書、p.250)
 
 つまり、彼の神話と音楽に関する理解の構図に、レヴィ=ストロース流の神話的思考を作用させたひとつの織物として、ここでの考察の図柄を位置づけることができるわけです。
 芸術・学問・宗教といった文化的活動の中には、かつて神話が担っていた機能を、暗黙のうちに果たしている個別領域がいくつもあります。それらは異分野間で並行的に展開されているのです。そしてその役割はおそらく、一人ひとりの人間の生き方や人類の存続にとって重要な意味をもっているに違いありません。
 レヴィ=ストロースの音楽論の射程は、そのあたりまで伸びていそうです。彼の音楽への考察は、豊饒なる可能性を秘めています。
 今回のこの記事は、彼の立論をもとに、彼の思考方法に導かれて、彼の議論の中に孕まれていた胚の一部を孵化させてみたものでした。
 
したがってこのブログ記事自体も、分析的思考と全体的・直観的把握との両面的知性の協働作用による生成物といえるでしょう。


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