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作曲と思索の愉しみ

オーケストラ作品の作曲・制作過程や、科学史と音楽史の研究にかかわる記録です。 森さちやの自作曲の公開も行います。 曲と思索を分かち合いたい。

レヴィ=ストロースの音楽論(4)―セリー音楽への批判― 

Posted on 10:25:37

 
 20世紀前半、シェーンベルクらが、調性のない「12音技法」を創始しました。それをさらに拡充したのが、「セリー音楽」です。その技法を用いて、メシアンやブーレーズらが、作品を残しています。
 その20世紀中葉の現代音楽に対して、レヴィ=ストロースは辛辣な批判をしています。
 今回は、その紹介をしてみようと思います。

 
 「12音技法」とは、1オクターヴ内の12の半音階のすべての音を対等に扱い、(ハ長調の「ド」の音のような)「主音」の存在を許さない作曲法です。この技法により、無調音楽の扉が開かれました。
 12の音の高さの順列を基本構造とする、和音やメロディーのない(ように聴こえる)音楽作品が、出現したのです。
 さらに、順列によってコントロールするパラメーターを、「音高」のみならず、「音価(長さ)」「音色(アタック)」「音強」にまで拡充した技法が、「セリー音楽」です。
 作曲家が綿密に数学的に構築した音楽世界が展開されているはずなのですが、実際のサウンドを聴くと、(少なくとも私には)理解するのが困難です。知的には面白そうですが、おそらく一般の大部分の聴き手は、支離滅裂な音楽、という印象を抱くのではないでしょうか(失礼な言い方ですみません)
 
 その「セリー音楽」に対して、構造主義の人類学者・思想家のレヴィ=ストロースが、実に腑に落ちる批判を展開しています。
 セリー音楽は、今までなじんだ土地(調性音楽)から、未知の世界に向けて航海に出ます。決して元の土地に戻ろうとはしません。航海の比喩を用いて、レヴィ=ストロースは次のように語ります。
 セリー音楽において「現実的であるのは目的の陸地ではなく航海になっており、航海の規則が航路より重要になっている」(レヴィ=ストロース、早水洋太郎訳『神話論理Ⅰ・生のものと火を通したもの』みすず書房、2006年、p.38)
 つまり、音楽の表現手段が、表現される音楽の内実よりもはるかに重要になってしまっている、「手段の自己目的化」が起こっている、とレヴィ=ストロースは指摘しているのです。
 また、聴き手が受動的存在でいることを許さない点を、問題にしています。その楽曲の順列構造を聴き手が積極的に理解しようとしない限り、セリー音楽は意味を成してきません。必然的に、新たな楽曲の形式構造を読み解こうとする努力を聴き手に強いることになります。
 ところが聴衆は、音楽を聴く際には通常は、「普遍的な体系に無意識にたよって」(同書、p.39)いるので、その命綱を意識的に外さなければならないわけです。
 そのような、聴き手に対する暗黙のうちの強制が、実効的になる保証はないでしょう。
「それゆえセリー音楽の属す世界では、セリー音楽が自分の軌道に聞き手を引き込むのではなく、聞き手から離れていくかもしれない。聞き手がセリー音楽に追いつこうとしても、日に日にセリー音楽は遠ざかり、追いつけなくなるかもしれない」(同書、pp.39-40)
 結局、無調性の音楽は、「聴衆の共有する心的構造」(同書、p.40)に働きかけることに失敗している、つまり、音楽のもつ神話的効果を発揮できていない、とレヴィ=ストロースは見ているようです。
 
 レヴィ=ストロースの批判を逆の方向から照射してみると、彼にとっての望ましい音楽像が見えてきます。
 
 音楽は、聴き手に対して何らかの神話的な働きかけをするものである。その効果が発揮されるためには、聴き手が無意識に頼っている普遍的体系(調性や旋律の感覚)を奪ってはならない。音楽の技法は、目的ではなく、手段にすぎないのだから、あまり出しゃばってはいけない……
 
 こんなところでしょうか。
 さらに、レヴィ=ストロースの人類学者としてのさまざまな見解(親族構造の分析や神話の論理構造の研究など)と照らし合わせてみると、次のようなことを暗示しているのは間違いないでしょう(音楽のついての議論の文脈内では明言していませんが)
 すなわち、
 
 人類学的観点からすると、音楽活動には、他者への「贈与」という根源的な特質が備わっている。ところが、無調性の音楽は、聴き手に対する「贈与」になり得ていないのではないか。それでは何のために音楽をやっているのだろう……
 
 私から見ると、実に妥当な見解であり、納得できます。
 無調性の現代音楽が、半世紀以上の月日を経過したのちも、ポピュラリティーを獲得できずにいるのも、上記の考察からすんなりと了解できます。
 聴き手の底層に歴史的に沈積されている音楽への感受性を、軽々しく扱ってはならないのでしょう。
 知性と意識的構築の領域が肥大しすぎ、(作曲家、聴き手の双方の)深層の無意識の活動を軽視してしまった作曲の技法が、人々の心の琴線に触れる作品を創作できる可能性は、はなはだ低いのではないでしょうか。


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