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作曲と思索の愉しみ

オーケストラ作品の作曲・制作過程や、科学史と音楽史の研究にかかわる記録です。 森さちやの自作曲の公開も行います。 曲と思索を分かち合いたい。

陸上のトラックや、水泳のプールに反映されている科学思想 

Posted on 10:42:40

 
 オリンピックシーズンが終わりました。この数か月、普段はあまり観戦しないスポーツ競技を見る機会かあり、私なりに気づいたことがいくつかありました。そのうちのひとつを、ここに書き留めておきます。

 
 タイトルに掲げた、陸上のトラックと競泳プールは、近代科学の暗黙の思想が、とりわけ顕著に反映されているように思います。
 その思想とは、「理想状態への志向性」と「第一性質の重視」です。
 これらはともに、17世紀の初頭、近代科学の勃興期に、ガリレオ・ガリレイが戦略的にとった姿勢でありました。
 
(1) 理想状態への指向性
 
 近代科学は、数学と実験という2本柱に支えられて、発展を遂げてきました。その両者を結合した「定量的測定実験」の、初期の代表例が、ガリレオの行った「斜面における球体落下実験」です。
 緩やかな、摩擦の少ない斜面を準備し、磨き上げた金属球を転がして、ガリレオは落下時間と落下距離との数学的関係を求めました。その実験で得られた関係式が、その後の運動力学の出発点となりました。
 出発点となったのはそれだけでなく、実験の方法と考え方も、その後の見本例となったのです。
 空気抵抗や摩擦はできる限り少ない方がよい。運動の方程式は、理想状態において完璧に成り立つはずである。その理想状態にできる限り近づけて、実験を行おう。
 そのような考え方が、その後の物理学では踏襲されていきました。大学入試の物理でも、「摩擦や抵抗やひもの重さは無視する」といった断り書きのもとで出題されます。
 
 さて、陸上のトラックフィールドですが、現実の自然界の野や山には、スタジアム内のような整地された完全な平面は、普通存在しません。凹凸があり、木々や草花が茂り、岩山や河川が存在します。狩猟採集時代の人類は、数百万年の間、そのような自然環境の中を駆け回って、獲物を獲得していたでしょう。
 そのような想像上の対比を行うと、陸上トラックが、人間の運動能力の限界を測定するための「理想状態」を目指して設計されていることが歴然としてきます。
 また、競泳プールも同様です。現実の自然界の水環境、川や海の中は、流れがあり、深さも変化し、水以外の様々な成分が溶け込んでいるのが普通です。底面は砂地であったり岩石であったり、海藻が生えていたりとまちまちでしょう。
 そのような、人類が長い間馴染んで格闘してきた川や海の環境では、泳ぎの能力を十分には発揮できないのでしょう。そのため、競泳プールという人工的な設備が考案され、能う限り「理想的な」、規格化された条件のもと、能力の限界が競われるようになった、と理解できます。
 つまり、陸上のトラックと競泳プールには、運動力学上の実験装置と同様な思想、「理想状態への指向性」が宿っている、と私には了解されてきました。
 
 しかしながら、ガリレオの実験装置が、自然界の様々な運動のある一側面を切り取ったにすぎないのと同様に、トラックやプールで判定される運動能力は、必ずしも自然界の中での適応能力とは対応しないでしょう。
 理想化された人工的環境内で発揮される能力が賞賛され、かつては人類にとって最も大事であった、自然界での野性的な適応能力が忘れ去られてしまっている状況は、残念に思います。ないものねだりかもしれませんが。
 
(2) 第一性質の重視
 
 ガリレオの残した有名な言葉に、「自然は数学の言葉で書かれている」というコメントがあります(ガリレオ、山田慶兒・谷泰訳『贋金鑑識官』中央公論新社、2009年、p.57)。これは、ガリレオの自然観の表明であり、また、決意表明のようにも受け取れます。
 現実の自然界が数学的構造のみで成立しているかどうかは保証の限りではありません。しかし、ガリレオはそうであってほしいとおそらくは願いました。上記の言葉は、その路線に沿って研究を進めて行きたい、という遂行的言明、と解釈できます(高橋憲一『ガリレオの迷宮』共立出版、2006年、p.457)
 さらにその自然観と連動して、ガリレオは物質観の転換も図っています。ガリレオは物体の「第一の実在的性質」として、「大きさ、形、数、遅いもしくは速い運動」などを認めますが、「味や匂いや色彩など」は物体の側にあるのではなく、感覚主体である人間の側にある性質であり、客観的実在ではない、と捉えるのです(ガリレオ、前掲書、48節)
 後にこの区分は哲学者のジョン・ロックに引き継がれ、物体の「第一性質」と「第二性質」、と呼ばれることになります。
 
ガリレオによるこの区分の基準は必ずしも明確とはいえず、ガリレオ本人もその境界線を明示的には語っていません。高橋氏は、「おそらくガリレオは、数学的に処理可能な性質を第一性質とし、そうでないものを第二性質としたのであろう」と推測しています。納得できる推論です。ガリレオは、自らの数学的自然観で掬い取り難い性質を、排除したかったと思われます。
 
 味や匂いや色彩などは、少なくとも17世紀のガリレオの時代においては、数学的手法を適用できそうにありませんでした。「量」的な性質ではなく、「質」的な性質に映っていたことでしょう。ガリレオは、自然界から「質」的なものを削ぎ落としたかったのです。そうすれば、自然界を探究するのに、数学的手法の適用で十分となるからです。
 
 さて、オリンピックの競技種目を振り返ってみると、競っている能力はほぼすべて、人間の「第一性質」的な能力であることがわかります。「量」的な、数量化できる運動能力です。「質」的な、あるいは芸術的な能力はあまり競いません(例外はフィギュア・スケートや体操でしょうか)
 ガリレオが戦略的に軽視した「第二性質」は、スポーツにおいても軽視されてきたようです。ガリレオの思想が、この面でも引き継がれています。
 競技者は、走りながら、泳ぎながら、視覚・聴覚・臭覚・皮膚感覚を働かせていることでしょう。感覚が鋭敏になっている選手もいれば、感覚を意識的に閉ざしているアスリートもいるかもしれません。しかし、そのような感受性は、競技の評価の対象とはならず、そもそもそのような感受性が生起しているか否かは無視されているでしょう。
 ところが、取り巻く世界の微細な変化を、鋭敏な諸感覚を総動員して感受するのは、人間の生存にとってかつては必須であったはずです(敵の気配はないか、天候の変わる兆しはないか、など)。走りながら、泳ぎながら感ずるであろう、そうした感受性に対する評価を切り捨てたうえで、陸上や水泳の競技は成立しています。
 あるいはまた、競技者の感性によっては、走りながら、世界との一体感、恍惚感などを抱くこともありうるでしょう。そうした心身の境位に対しても、評価がなされることはありません。「質」的性質は、評価の対象外、そもそも考慮の枠外となっているわけです(ただし、直接には評価されないフォームの美しさや特定の鋭敏な感覚などが、間接的に記録向上に結びつくことは十分ありうるでしょう)
 このように、陸上のトラックや競泳プールで行われている競技においては、「量」的性質、「第一性質」が、絶対的な重みをもっています。このことは、近代科学思想が歴史的に抱えてきた趨向性と見事に連動しています。
 
 ところで、数学的自然観は、科学の歴史において、機械論的生命観とリンクしてきました。陸上や水泳に伏在する数学的自然観や「第一性質の重視」の姿勢は、人体を機械のごとく見る思想と相性がよさそうです。
 運動機械としての人体の能力を、どこまで発揮できるか。そのような身体観が暗黙の裡に入り込んでいるように感じます。その一方、その能力の発揮のためには、人間の「質」的性質の側面も整えておくべきことを、アスリートや指導者たちはおそらく心得ていると推測します。
 
 数量的に把握された科学的自然像が、自然界の一側面を明らかにしたにすぎないのと同様に、数量的に計測される身体能力は、全一的な人間の能力のごく一部分にすぎないでしょう。
 そのことを忘れてはならないと思います。
 このように、自然科学のもつ有効性と限界は、見方によってはある種のスポーツ競技にも当てはまる、といえそうです。


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