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作曲と思索の愉しみ

オーケストラ作品の作曲・制作過程や、科学史と音楽史の研究にかかわる記録です。 森さちやの自作曲の公開も行います。 曲と思索を分かち合いたい。

作曲は何と似ているか(3)武道の修練や宗教上の修行と似ている 

Posted on 06:26:00


作曲は何と似ているか(2)の続きです。

 これは作曲とよく似ている、と私が感じたいくつかの事柄を取り上げて、なぜ似ていると感じたのかを検討していくシリーズです。


武道の修練や宗教上の修行と似ている(かも知れない)

 
 (かも知れない)と但し書きをつけたのは、両方とも私が本格的に取り組んだ経験がないからです。でも、多分そうであろうと推測しています。
 
 合気道や剣術のような武道の修練や、禅仏教やチベット密教などの宗教上の修行によって開発される能力の中には、次のような事柄も含まれるでしょう。
 
 a.世界に対する感受性・共感能力が高まる
 b.自分の内面の意識・精神の動きを明確に感受・察知する

 
 この二つの能力は、武道の最大の目的ではないし、宗教的修行の最大の目標でもありません(戦闘能力の向上や、何らかの宗教的体験が、それぞれの目指していることだと思われますが、異論もあるかもしれません)
 でも、その目標を目指す過程で、これらの能力が涵養されてくるであろう点は、注目すべきでありましょう。むしろ、武道の修練や宗教上の修行は、それぞれの目標を方便として、人間的な成長に深い関わりのある重要な能力の開発にこそ主眼を置いているのではないか、とも感じます。
 
 作曲という営為も、これらと似ています。
 自然や宇宙を描こうとする作曲家にとって、世界に対する感受性・共感能力を高めることは必須です。曲を作るごとにこの能力は養われていくようですし、そもそもこの能力が少しでもなければ、作曲の意欲すらわいてこないでしょう。
 また、自らの潜在意識が世界と溶け合っているあたり(あるいは身体的・生命的領域と触れ合っているあたり)から、発想の原型を汲み上げてメロディーや和声などにいわば翻訳しているわけですから、自分の内面の意識・精神の動きを明確に感受・察知する、という能力も、作曲には不可欠のように私には思われます。
 
 ちなみに、「ピアノに向かって弾いていると曲ができる」といった類の表現がありますが、これは不正確です。体の動きと精神の揺らぎとが連動・共振して、指が鍵盤にタッチする少し以前に、曲が生成し、それを指が表現している、というほうが、実情に近いと思います。それゆえ、ピアノに向かって作曲する場合でも、直接五線紙に向かって曲を書いていく場合でも、上記二つの能力が必要とされることには変わりありません。
 
 したがって、作曲の場合も、ある意味で“修行”であって、武道の修練や宗教上の修行と同様に、世界や自分の内面に対する覚醒を必要とし、その修行の過程でその能力がさらに涵養され、精神的な変容を遂げていく、といったタイプの営みなのです。
 
 さらに、作曲に没入している際に、忘我の境地が訪れたり、通常とは違う意識状態に遭遇したりすることがあるのも、武道や宗教上の修行と似ているかもしれません。また、身体的コンディションの良し悪しが、成り行きを大きく左右する点も似ていそうです。
 
 最後に、どちらも、充実した「生きている時間」の体験である点も、共通しているでしょう。
 他の事柄のために奉仕する時間ではなく、純粋にそのことだけに没入する時間、自己の「内的時間」竹端寛さんのこのブログ記事を参照)を生きられる、ということです。


作曲は何と似ているか(4)に続く

 

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