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作曲と思索の愉しみ

オーケストラ作品の作曲・制作過程や、科学史と音楽史の研究にかかわる記録です。 森さちやの自作曲の公開も行います。 曲と思索を分かち合いたい。

古典派風の楽曲を創作する意味―自然な逸脱― 

Posted on 08:59:17

 
 最近、新録音版の演奏の公開を続けていますが、そのうち、<アシカのメヌエット><白鷺の舞>は、モーツァルトやハイドンを見倣って作曲した、古典派風の作品です。
 それら以外でも、古典派風の管弦楽曲を何曲か作っています。私はなぜ、懐古趣味のような、あるいは時代錯誤的な作品を作ってみたくなるのか、ここで自己分析してみます。

 
 現在でも、モーツァルトやハイドンの交響曲や協奏曲などは、コンサートでしばしば演奏されるレパートリーとして定着しています。そして、現代の聴衆は、古典派の音楽を必ずしも"古臭い"音楽とは感じていないように思われます。
 私も、自宅でモーツァルトやハイドンの音楽を浴びるように聴くことがあります。彼らの、整然とした秩序を重んじる作品には、聴き手の精神を落ち着かせ、リラックスさせる作用があるでしょう。形式に準拠して構築されているため、安心して聴けるのです(例外的な短調の作品群もありますが)
 それゆえ私は、多くの人々に馴染みのある古典派の枠組に、利用価値を感じています。聴き手が自然にその曲に入り込んでくれる枠組。違和感なく作品世界に没入してもらえる可能性が高い準拠枠といえます(逆に、陳腐で退屈だと思われる惧れもなきにしもあらずですが)
 また私は、古典派の汎用性のある素直な枠組に、使い勝手の良さを感じています。全体の構造を、あまり悩むことなく決定でき、なおかつその大枠がだいたいのところしっくりくるので、利便性があります。つまり、「使える」のです。
 
 ところが、古典派風の楽曲を創作することに対して、次のような批判があります。
「200年以上前の時代に成立した形式を用いて作曲することが、現代においてどれだけの意義をもちうるのだろうか」といった批判です(私が実際に受けた批判です)
 確かに、それはその通りであり、反論しても仕方がない正論ではありますが、その論点に関して、私なりの見解を述べておきたいと思います。
 
 <アシカのメヌエット>では、古典派のメヌエットの形式に、<白鷺の舞>では、ロンド形式に準拠して、作曲を進めていきましたが、細部においては、必ずしも古典派時代の作曲法を厳守したわけではありません。
 18世紀後半の時代ならば使いそうにない和音を使ったり、当時ならばやりそうにない転調を行ったりします。繰り返しのルールにも従ったり無視したり、カデンツァの前の和音を四六の和音にしなかったり……。それも、意図的ではなく、「おのずと」そうなります。その曲の進行に伴って、最も妥当と感じられる和音や転調を選択すると、結果として古典派の音楽を逸脱していきます。
 200年の時代の違いは、細部に滲み出てきます。現代の日本に生きて、同時代の空気を吸っている私の心身を通して、作品が生成してくるわけですから、現代性や、作曲家の個性などが、枠組からの自然な逸脱に表出されてくることでしょう。
 敢えて、新奇な表現をとらなくとも、また、自分のオリジナリティーを積極的に主張しなくとも、時代性や地域性、創作者の想念などは、作品におのずと反映されるものだと思います。
 
 私の場合、古典派の枠組を使うことによって、意識的な自我の主張をある程度抑制でき、精神の深部から湧き上がってくる要素を掬い取りやすくしているように感じています。
 結果として、「自分で聴きたい音楽」に仕上がってくるので、この枠組は捨てがたいのです。


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