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作曲と思索の愉しみ

オーケストラ作品の作曲・制作過程や、科学史と音楽史の研究にかかわる記録です。 森さちやの自作曲の公開も行います。 曲と思索を分かち合いたい。

隠棲するもよし、活躍するもよし―『荘子』繕性篇の指針― 

Posted on 11:57:49

 
 俗世間とどのような距離感を持って生きていったらよいか、というテーマに関して、中国の古典『荘子』は、いろいろと示唆に富む内容を語っています。
『荘子』外篇のひとつの章である繕性篇を読むと、「あれ?」と意外に感じることが書かれています。

 
 その意外なこととは、いにしえの隠遁者たちが、必ずしも自分の意思で隠棲したわけではない、という見解が述べられていることです(この見解は、荘子が宰相就任のオファーを断った、という秋水篇の説話と、表層的には矛盾します)
 
「むかしのいわゆる隠士というものも、自分から身を隠して世にあらわれなかったというのではなく、自分から口をとじてものを言わなかったというのでもなく、自分から知恵を内にひそめて外に出さなかったというのでもない。時のめぐりあわせがとても悪かったからそうなったのだ」
(金谷治訳注『荘子 第二冊』岩波文庫、1975年、p.236)
 
 つまり、積極的隠棲ではない、成り行きでそうなった、というわけです。
 では、時節にめぐり合えたならば、どんな生き方をするのでしょうか。それについては、同じ繕性篇の次の節に参考になることが述べられています。
 
「高位高官が身についているというのは、自然な性命[うまれつき]のままではなくて、外から偶然にやってきてしばらく宿っているだけのものである。しばらく宿るだけのものには、それがやって来たときに拒否するのもよくないし、それが離れていくときにひきとめるのもよくない。[むかしの人は]高位高官を得たからといって勝手気ままなふるまいをせず、貧窮におちいったからといって世俗におもねることをしない。その自然な楽しさは、高い地位についたときも貧窮におちこんだときも変わりがない」
(同書、p.238)
 
 結局、成り行き次第で、「隠棲するもよし、活躍するもよし」と、この繕性篇の作者は判断していると見てよいでしょう。裏を返せば、無理をして世に出ようとしたり、意図的に世間から逃避したりすることはないのです。
 そして、より大事なことはむしろ、どちらの場合でもそれらの状況に執着しない、ということです。栄達も貧窮も、仮のものであり、自分の外側からやってきて、やがては去っていく。そのことを十分に了解していれば、「心の平和」が保たれる、ということでしょうか。
 
ここで私のスタンスを少々はさんでおきます。
ここでの議論は、「社会との精神的距離感」というテーマと不可分です。世間から受ける評価というのは、時に不条理・理不尽であり、気まぐれです。そして自分でコントロールできるものではありません。それゆえ、外部からの評価や批判に神経をすり減らすのは、心の消耗になりますから、繕性篇が教示するように、「仮のもの」と認識して距離を置くのが得策でしょう。
 
 ところで、この繕性篇の思想は、『荘子』内篇の本来の思想と表面的にはズレがあるように見えるかもしれませんが、思想の本質は、筋が通っています。
 内篇中の斉物論篇における、万物斉同論の核心的思想が、ここでも現出していると考えられます。とどのつまり、どちらを生きたとしても、等価なのです。故事となった「朝三暮四」の寓話のように、トータルで見れば、それぞれの人生経験の総合的価値は変わらない、ということです。
 そして、どちらの人生を生きた場合でも、かりそめの事柄に精神を煩わせずに、自在に心が逍遥できる精神の余裕を持ち続けることが肝要なのでしょう。


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