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作曲と思索の愉しみ

オーケストラ作品の作曲・制作過程や、科学史と音楽史の研究にかかわる記録です。 森さちやの自作曲の公開も行います。 曲と思索を分かち合いたい。

比較文化史は厳密な「学」にはなりえないが、それでよいのではないか 

Posted on 12:32:14

 
 私の近年の研究の中心テーマは、「音楽史と科学史の比較」というものです。このテーマを敢えて一般化すれば、比較文化史という大きな領野のひとつ、とみることができるでしょう。

 
 音楽史と美術史を比較対照する試みは、以前からよく見られました。また例えば、美術史と物理学史との対応関係を考察している書物もあります(L.Shlain, Art & Physics, Parallel Visions in Space, Time, and Light, New York, 2007)
 さまざまな文化史間を比較対比する研究は、包括的・網羅的ではないにせよ、さまざまな形態で存在しています。それゆえ、「比較文化史」という学問領域が、おぼろげながらも成立しているとみなすこともできましょう。
 しかしながら、この比較文化史は、既存の学術分野、有機化学や政治思想史のような厳密な「学」の体系にはなり得ない、と考えています。これは、音楽史と科学史の比較研究に取り組んでいる私の実感です。
 それには大きな理由が二つあります。
 ひとつは、実証的証拠を提示するのが不可能ではないにせよ、既存の分野に比べると、相当ハードルが高い、ということです。“状況証拠”的なエヴィデンスをいくつも積み重ねていく、というのが基本戦略となっています(私が最近提示した証拠の例としては、ブログ記事<17世紀初頭に出現した、大譜表とデカルト座標>をご参照ください)
 音楽史と科学史がいかに類似しているかについて、実例を次々に提示していく、ということはできますが、異なるジャンルの歴史である以上、双方の分野の特異性も当然存在しているわけで、結局のところ“印象批評”のレベルを脱するのは難しそうです。
 もうひとつの理由は、既存の枠組から逸脱している研究分野である、ということです。それぞれの文化史は、それなりに研究方法が確立していて、実証的研究成果を挙げるにはどうしたらよいかについての手順が、研究者の間ではほぼ共有されているでしょう。それに対して、比較文化史では、ゲリラ的に双方の文化領域を横断するため、一般的な研究方法の準拠枠が確立しにくい、という事情があります。
 結局、学問としての「パラダイム」が成立しづらい性質の研究テーマであるため、厳密な「学」とはなり得ず、ディレッタントの趣味の延長上の研究の相貌を呈するわけです。
 
 さて、そのことに対して、私はそれでいっこうに構わないのではないか、と思っています(開き直りかもしれませんが)
 比較文化史的な著作からは、たいていの場合、著者がその研究に愉しんで取り組んでいることがとてもよく伝わってきます。私の場合もこの研究過程で何度となく愉悦を味わってきました。
 研究自体が楽しくて仕方がない、ということが、研究生活を継続するための最も重要な要件であると思いますが、その要件を十分に満たす研究テーマであるから、「学」として成立するか否かは、二の次の問題になります。
 また、研究者を惹きつける魅力的なテーマは、既存の学問分野の枠組の「狭間」に出現することが往々にしてあります。進化論も、出現当時はそうでした(分類学・形態学・発生学と地質学との間に芽生えました)。生命の起源論は、現在でも複数のジャンルの研究者が共同で探究しています(分子生物学や地質学、有機化学など)
 一般的には進化論は、「進化学」と称することがあまりないように(専門家は名乗っていますが)、「学」ではなくて「論」であります。その最大の理由が、学問的厳密性の度合いが十分には高くないことにあると、私は考えます。進化のメカニズムについて、部分的には実証的な研究もできますが、大局的な、億年単位に及ぶ生物の進化の歴史を再現する追試は、実現不可能、という事情があるからです。だから、進化「論」でよいのです。生物の起源論についても同様です。
 このような、「学」になり得ない研究テーマは今までも存在し、これからも出現するでしょう。そして、そうしたテーマには、研究者を誘引する魅力を秘めているのです。
 
 ではなぜ、領域を越境するタイプの研究テーマに魅力があることが多いのでしょうか。
 比較文化史の場合、その研究が、人間の知的営みの本質に肉薄する内容を宿しているからでしょう。進化論や生命の起源論の場合、その探究によって、生命の本質の一部が開示されてくる可能性があるからでしょう。
 つまり、学問本来の目的である、人間や生命や世界の「存在の意味」をめぐる探究に直結している感触があるからなのです。
 学問的厳密性、というのは、研究成果の説得力を向上させるための重要なポイントではありますが、探究の本来の目的からすれば、「手段」でありましょう。よって、「学」ではなく「論」に過ぎない研究でも、その探究から何らかの洞察が得られるのであれば、存在意義があるのではないでしょうか。


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