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作曲と思索の愉しみ

オーケストラ作品の作曲・制作過程や、科学史と音楽史の研究にかかわる記録です。 森さちやの自作曲の公開も行います。 曲と思索を分かち合いたい。

柴谷篤弘『反科学論』は「科学者の枠組外し」を裏のテーマとしている 

Posted on 18:28:35


 必要に駆られて、学生時代に読んだこの本を読み返してみました。
 
 柴谷篤弘『反科学論』(みすず書房、1973年)
 
 手元になかったので、ウェブサイト「日本の古本屋」を通じて、町田の高原書店から購入しました。
 30年ほど前に読んで抱いていた印象とは、だいぶ異なりました。
 この本は、科学が社会と関わりをもつことで生じるさまざまな問題点を提示して、科学のあり方に対して包括的批判を提起している――このような大雑把な記憶が残っていました。この論点は、確かにこの本の重要な一側面ではありますが、どうやら、それだけではなかったようです。

 もちろん、上記の点が、この本の主要テーマであることは間違いなかったのです。
 確かに、柴谷さんはこの本で、1970年代当時の諸問題、公害や自然・生態系破壊、南北問題、エネルギー問題や原爆や原子力発電の問題などを踏まえつつ、社会的営為としての科学の現状の問題点―専門家勢力の維持拡大傾向、エリート主義の弊害、帝国主義との結びつきなど―を摘出したり、科学の客観性・中立性が神話に過ぎないことを指摘したり、学会などの組織のあり方を検討したりしています。、
 ところが、この本には、もうひとつ、見落とすことのできない注目すべきテーマが、主要テーマと絡みつつ展開されていたのでした。
 そのもうひとつのテーマとは、竹端寛さんの著作の言葉を借りれば、「科学者の枠組外し」と総括できる内容のものです。
 竹端さんの本を読んだ直後に、この柴谷さんの本を読んだせいか、二人の著作のテーマが響きあっているように感じたのでした。
 この『反科学論』から、このテーマに関連する文章をいくつか、引用してみます。
 
「その矛盾の解決法は、ひとつだけあるとおもう。それは専門家であることをやめることである」(p.15)
「科学者の生活態度も、今日に見る官僚のありかたよりは、ずっと独立したもので、むしろ作家や詩人のありかたに近づいたものであることが望ましい」(p.283)
「ことは、研究体制とか協力体制とかいうことでなしに、ひとりひとりの科学者が、どう考え、どう行動し、どう学び、どう生きるか、ということであるはずなのである」(p.289)
「さらにこころのありかたの鍛錬というところへ進まざるをえない」
(p.304)


※過激な言明「専門家であることをやめること」については、私は、この書物全体を念頭において、また柴谷さん本人が分子生物学・発生学の専門家であり続けたことから、次のように受け止めました。 
 「専門家であることを自己目的化しない。専門家を着脱可能な衣服のように捉える」ということです。専門家集団の中での評価や、専門家集団の維持・発展を目的にしてしまってはならない。社会の福祉などのために有益であるならば手段として活用するが、不適切な目的のために奉仕する可能性がある場合には、専門家を脱ぎ捨て、一人の人間として行動すべきだ、と私なりに解釈しました。
  
 科学者が、科学者共同体の利害関係のなかに埋没した一人の専門家である限り、支配的政治体制と緊密に結びつきがちな科学の活動に対して、批判的言動を起こすのは難しいでしょう。
 柴谷さんは、科学のあり方を根本から変革するには、政策・制度・組織をいじるだけでは表層的であって、科学者のひとりひとりの意識の在り方の変革が伴わねばならない、と考えているのです。
 自分自身が科学者という専門家であることに対して、批判的吟味を行い、専門家という閉じた箱の外に出て、専門家としてではなく一市民として考え、行動し、生きていくべきだ、と呼びかけているのです。
 こうした問題意識が柴谷さんの中核にあったからこそ、当時、この著作に引き続いて書かれた著作のタイトルを、
 『あなたにとって科学とは何か』(みすず書房、1977年)
 『科学者は変わったか』(朝日出版社、1981年)
とした必然性が理解できます。
 

 科学技術の細部に立ち入った個々の論点においては、さすがに時代の違いを感じさせる個所も見受けられましたが、科学者ひとりひとりのあり方を本質的問題とする論点については、現在でも新鮮味があり、傾聴するに値する議論だと感じ、共感しました。
 原発事故を経験した今日の日本において、科学者のあり方を再考するためのよき指標になるのではないでしょうか。
 
  柴谷さんの示した理想的な科学者像に近い人物として、すぐに想い起こされたのが、高木仁三郎さんの名前でした。
 高木さんは、1975年に東京都立大学を辞職し、つまり、専門家であることを止めて、ひとりの「市民科学者」として、原子力資料情報室の代表として活動を続けてきた人物です。
 彼は、原子力発電に対して、包括的・根底的な批判を続けてきました。とりわけ、原子力の専門家が、既存のシステム内の一員としてのみの言動しか取らず、人間としての人格的参与をせず、組織に責任を預けてしまっている姿勢に対して、苦言を呈し続けてきました。
 高木さんの何冊かの著作のなかで述べられているコメント、
 「議論なし、批判なし、思想なし」
はまさに、専門家集団に埋没している研究者を的確に射抜いている言明です。
 

 人災であった福島第一原発事故の背景のひとつに、原子力の専門家たちの多くが、その枠組内に安住しすぎていたことがあったのは疑いないように思われます。
 その意味で、高木さんの批判は的を得ていましたし、また、柴谷さんのこの本の裏のテーマの重要性は確かなものでしょう。
 
 科学者が、専門家でありながら、あるいは専門家をやめて、その専門性の問題点や限界に自覚して、その枠組を相対化し、批判的検討を加え、一人の独立した市民としての立ち位置から考え、行動する。
 この方向に向けて、あなたは、私は、どれだけのことができるだろうか。

 
 柴谷さんは、こう問いかけていたのでした。
 


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