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作曲と思索の愉しみ

オーケストラ作品の作曲・制作過程や、科学史と音楽史の研究にかかわる記録です。 森さちやの自作曲の公開も行います。 曲と思索を分かち合いたい。

「自分にしかできないこと」という袋小路 

Posted on 09:34:23

 
 先日、大村智さんがノーベル医学生理学賞を受賞した際のTVのインタヴューで、次のようなことを語っていました。
 「人生の岐路においては、どちらの方が人のためになるかを基準にして、方向を選択した」という趣旨のコメントです。

 
 私はそれを聞いて、そういえば、そんな考え方もあったなあ、と思いました。
 私の場合を振り返ってみると、「人のためになること」という基準で人生における重大な選択をした記憶はありません。そのような基準で自分の人生の道を選べるというのは、社会人として成熟した大人でなければできないことだと、現在の私は理解するようになりました。
 大学時代や大学院時代の私は、いくつかの分かれ道が見通せる場合、結果として、「自分にしかできないこと」あるいは「できる人が少なそうな領域」を選んでいました。
 今になって思うと、このような方針には、メリットはあるものの、デメリットも相当あることがわかってきました。
 生来、周りの人たちとの競争を好まない性向であった私にとって、不要な争いを減らせ、なおかつ自分の好きなことを存分にできるため、それほど逡巡することなくこうした方向で進路を選ぶことができました。
 大学では理学部で生物化学分野の実験をしていましたが、大学時代に歴史に対する興味が深まり、大学院では「科学史」に専門分野を転じました。この裏には、実験科学者でなおかつ歴史にも関心をもっている人物は少ないだろう、といった計算も働いていたと思います。また、仲のよい理学部の同志とライヴァル関係を継続する心理的圧迫感から逃れたかった、という要因も作用していました。
 科学史の研究においても、現在のメインテーマは「科学史と音楽史の比較」という分野を越境する課題となりました。この課題に興味をもっている研究者は少なく、ほとんど私の個人的な趣味の研究といってもいいものですが、これほど自分に適したテーマはない、と思っています。
 「自分にしかできないこと」を選ぶ方向には、そのようなメリット―自分の適性を発揮でき、争いを減らせること―が確かにあります。
 その一方で、このような人生の選択基準には、無視できないデメリットが存在します。そのひとつは、その路線を追究すればするほど理解者が減り、社会的にも認知される可能性が低くなる、ということです。
 このことは理屈ではわかっていたことですが、私個人は社会からの評価を期待するタイプの人間ではなく、また、引き籠もり型の生活をこよなく愛する(社会や文明の価値観からある程度距離を置いて生きる)人間であるため、そのデメリットに対して当初は実感がありませんでした。
 けれども、自分が追究してきた事柄のエッセンスを社会に提示することは、研究者の最低限の責務でありますが、その責務を果たすのが、マイナーな研究領域では相当の困難を伴う、ということが判ってきました。
 さらにもうひとつ、致命的な問題点があります。「自分にしかできないこと」を研究したつもりになっていると、根拠なく自分が有能な人物だと錯覚してしまうことです。修行者の陥りがちな「増上慢」の罠が待ち構えているのです。
 己を知り、自我を批判的に脱構築することは、学問をする最も重要な意義であろうと思いますが、自我の肥大を招いてしまえば本末転倒です。
 反省を込めて言うと、私は他者不在、もしくは他者軽視の研究をしてきてしまったのではないか、そして思い上がっていたのではないか、ということです。
 それと比較すると、「人のためになること」を人生における選択基準とした大村先生は、成熟した社会人感覚を身につけておられた方だ、と感心します。
 
 ところで、「自分にしかできないこと」を追究する弊害の好例が、音楽の歴史に存在します。
 20世紀の、12音技法以降の無調性の現代音楽がそうです。
 新しいこと、誰も考えたことのないこと、珍奇なこと、を追究して、メロディーや協和音を捨ててしまった現代音楽の作曲家達の姿勢には、「自分にしかできないことの探究」が基調にあったのは間違いないでしょう。
 創作の過程はおそらく、知的快楽に満ちた、充実した時間でしょうが、その音楽を理解できる人間は、その音楽が個性的で新奇なものであるほど、減っていきます。「自分にしかできないこと」を追究する研究が陥りがちな弊害と同様に、聴者不在、もしくは聴者軽視の創作となりがちで、さらに自己の能力を過大評価しがちになるのではないか、と私は危惧します。
 大村先生の基準、「人のためになること」の作曲家版は、「人の聴きたい曲を作ること」でしょう。この観点を欠いてしまうと、創作は独りよがりの産物になってしまうのではないでしょうか。
 しかしながら、一人ひとりの趣味や感性が異なるため、一般的な「聴きたい音楽」は焦点を結びません。どうしたらよいでしょうか。これに関しては、日曜作曲家でもある私は悩んだ挙句、次のような指針にいたりました。
 「(自分が作りたい音楽ではなく)自分が聴きたい音楽を作る」
 これが現在の私の作曲指針の中核となっています(この点については、ブログ記事<自分が作りたい曲ではなく、自分が聴きたい曲を作る>をご参照ください)
 「自分が聴きたい音楽を作る」または「人の聴きたい曲を作る」ためには、過剰な自己主張を盛り込んでしまいがちな「知的構築」偏重の姿勢から脱却して、「おのずと音楽が生成していく」過程を重視することが肝要だと思います。音楽の自己生成の伴走者を務めるには、無意識や自然界からの微弱なシグナルに自己を開き、世界に対して受動的で鋭敏な精神の姿勢を保つことがポイントになるでしょう。
 元をたどれば自然界から誕生した人類の一員である自分の心身を、生命の潮流や宇宙からの素粒子に解放して、宇宙浴の陶酔状態で作曲をしたいものです。
 話を現代音楽の問題に戻します。
 現代音楽における上記のような袋小路は、専門分化していく学問における弊害と共通していると感じます。現代音楽は、「研究論文」化してしまった、と捉えると理解しやすいでしょう。
 研究論文では、それ以前の各学問分野の体系になかった、新しい知識や考え方などが提示されることが期待されます。それが社会とどうつながりを持つのか、というのは、分野にもよりますが、二の次になる場合が多いでしょう。そして、内輪の研究仲間にさえ理解してもらえればよいと考えがちです。その結果、一部の研究者以外ほとんど読まれない論文が量産されてきました。さらに、外野からの批判もほとんど届かないため、自我の肥大への抑制が効きません。
 それと同様に、現代音楽では、いかに新奇な作品を創作できるかという自己主張と、内輪の仲間による認知が優先され、リスナーの嗜好は軽視され続けました。その結果、一部の理解者・擁護者以外は見向きもしない「知的構築」偏重型の作品が産み出され続けた、と私の眼には映ります。現代音楽の「研究論文」化です。
 
 大村先生の人生指針を、作曲にも生かしたいものです。

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ジャンル - 学問・文化・芸術

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