04 « 1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31. » 06

作曲と思索の愉しみ

オーケストラ作品の作曲・制作過程や、科学史と音楽史の研究にかかわる記録です。 森さちやの自作曲の公開も行います。 曲と思索を分かち合いたい。

生態系と文明の価値観―生きる意味をめぐって― 

Posted on 15:41:50

 
 作曲家・ロクリアン正岡氏の渾身の論考、<八木哲学の生体解剖からロクリアン哲学へ>に触発されて、哲学者・八木雄二氏の次の著作を読み進めました。

 
八木雄二『生態系存在論序説―自然のふところで誕生した人間と文明の相克―』(知泉書館、2004年)
 
 この書物は、人間の生きる意味や、自然と文明との関係、文明の持つ暗黙の価値観などについて、独自の視点から系統的に論じています。
 個々の論点や主張点に関しては、同意しかねる個所が多数あるのですが、考察の前提に関しては、私も共有できると感じました。その前提とは、次のようなことです。
 ひとつは、現代の人類の在り方を考える際に、文明以前の人間が数百万年に及ぶ狩猟採集時代を自然界のなかで過ごしてきた、歴史的経験の重みを考慮に入れることです。もうひとつは、文明以前の人類は、おそらく、他の動物や植物と霊的な交流・感応があったであろう、とする見方です。
 この二つ目の点については、八木氏本人がそうした能力に恵まれているらしいことが、著作の端々から感じ取れます。現代人も、私を含め、そうした能力は衰えてしまっているものの、全くなくなってしまった訳ではないので、文明の進展とともに抑圧されてしまった、と見做すことに、私は抵抗を感じません(私はかつて、白鷺やアシカや蝶やアンモナイトをモチーフにした管弦楽曲を創作していますが、こうした感受性がもしゼロであるならば、作曲意欲すらわかなかったことでしょう)
 とはいえ、こうした前提のもと、「人類はなぜ誕生し、何のために生きているのか」という問いに対する八木氏の解答には、首を傾げざるを得ません。八木氏は、「良好な植生環境ないし生態系の状態を維持管理すること」(p.230)こそが、人類誕生の目的であり、存在意義である、と繰り返し語ります。植物を中心とした生態系を神聖なものと捉え、その生態系の最善に保つことこそが、人類に与えられた使命、と考えているのです。
 八木氏がそう考えるに至った経緯も述べられてはいるのですが、少なくとも私に対しては説得的ではなく、この考え方は、八木氏の信仰であろう、と理解しました。あるいは、八木氏の個人的な人生の目標なのかもしれません。
 しかしながら、現代の文明の価値観を根底から考察し直そうとするならば、上記の二つの前提を無視することはできないと、私も考えています。そして、自然界との関わりあいの観点から、八木氏の人生観とやや似た考えを、私も抱いています。
 人生の意義は、連綿と続く生命の潮流と共感し、その潮流を分有することにある、と感じることがあります。老いて、いつかは死ぬ身ですが、一時期、久遠の相と係わりをもって、人間一個体として生きている、といったイメージです。その潮流の乱れを調整することも、その共感に含まれうるでしょう。よって、八木氏の持っている人類の存在意義は、私の持っているイメージとは反するものではなく、相通じるところもあると思います。
 
 また、八木氏が生態系の対極的存在と捉えている文明に関しては、文明の持つ価値観、たとえば土地の所有、人間中心的な自然の改変、競争原理の肯定、死に対して生を善とみなすこと、などをことごとく切り捨てます。その気持ちはよくわかるのですが、文明も自然界を基盤に生まれてきた以上、それなりの意義や役割があると私には感じられます。少なくとも全面否定的な議論には、私は同意できません。
 そこで提案なのですが、生態系や自然界の本来的価値基準と抵触しそうな現代文明の価値観に関しては、「仮のもの」、場合によっては「必要悪」と考えてはいかがでしょうか。本質的なものではないけれども、さまざまな経緯で採用せざるを得ない考え方や、行動様式が、文明世界ではいたるところに存在すると思います。たとえば、貨幣や経済社会、学歴、自家用車、携帯電話などを、「仮のもの」あるいは「方便」と捉えると、文明社会の抑圧から精神がすり抜けて、生きやすくなると感じます。
 聖徳太子の言葉と伝えられる「世間虚仮、唯佛是真(せけんこけ、ゆいぶつぜしん)」の「世間虚仮」の見方です。否定はできないけれども、仮のものとして捉えておこう、本当に大事な事柄は他にある、ということです。
 また、「必要悪」とは、次のようなことです。
 一例として、河川における堤防を考えてみます。9月の上旬に鬼怒川が豪雨で氾濫しましたが、もともと関東平野は、長年にわたる河川の洪水・氾濫によって土砂が堆積してできた、沖積平野です。大雨で河川が増水し、猛威を振るうのは、大昔からの自然現象といえます。したがって、河川の蛇行や氾濫を抑制するために堤防を築くことは、「自然破壊」であり、「環境破壊」に相当します。しかし、堤防またはそれに相当する防御は、現実問題として必要でしょう。
 とはいうものの、人工的堤防の築造を「善」と判定することはできないでしょう。やはり「必要悪」です。そして、「自然破壊」であり「必要悪」である、と認識しておくことは極めて大事です。なぜなら、そのことによって失われてしまった事柄を想起させることができるからです。
 失われてしまった事柄、とは、言うまでもなく自然界に対する感受性です。堤防によって自然な河川の状態を矯正して障壁を作り、堤防の向こう側に自然界を封じ込めてしまった、という認識があれば、河川に対する感受性が衰微してしまったことにも思い至るでしょう。その結果、河川が暴れ始める兆候をより早く察知できるようになるかもしれません。
 このような「仮のもの」「必要悪」といった了解ができれば、虚飾に満ちた現代文明の世界の中でも、何とか精神の均衡を保って生き延びることができるのではないでしょうか。また、文明をそれなりに味わうこともできるのではないでしょうか。
 八木氏の思想は、純粋無垢すぎて、危うさを感じてしまいます。
 
 結局、私は哲学者・八木雄二氏にかなりの精神的共感を抱いたのですが、個々の主張点に関しては留保しておきたい、と考えた次第です。
 
冒頭でも述べましたが、八木氏の生態系3部作に対して、ロクリアン正岡氏が、包括的で緻密な批判的検討を行っています。ご参照ください。
 
<八木哲学の生体解剖からロクリアン哲学へ―友であり敵である哲学者:八木雄二との内的ドッキングにより死の解明へと向かったロクリアン物語―>

関連記事
スポンサーサイト

テーマ - 生き方

ジャンル - ライフ

△page top

△page top

Secret

△page top

トラックバックURL
→http://wood248.blog.fc2.com/tb.php/143-b1119948
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

△page top

カテゴリ

全記事一覧リスト

最新記事

月別アーカイブ

コメントをどうぞ

最新コメント

最新トラックバック