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作曲と思索の愉しみ

オーケストラ作品の作曲・制作過程や、科学史と音楽史の研究にかかわる記録です。 森さちやの自作曲の公開も行います。 曲と思索を分かち合いたい。

固定的自然観の呪縛(その3)―地球温暖化要因論争への影響― 

Posted on 16:48:34

 
 過去の代表的な科学論争の中には、論争の一方の陣営において、強固な信念である「固定的自然観」が大きな影響力をもっていた事例があります。(その1)(その2)では、三つの事例、天動説・地動説論争への影響、生物進化論争への影響、大陸移動説論争への影響を、紹介しました。
 「固定的自然観」とは、「根拠なく、宇宙・自然を時間・空間的に不変・不動の存在と思い込む観念」です。この観念は、常識的・日常的自然観に根ざしているため、自覚しにくい暗黙の了解となっているのです。
 今回は、その固定的自然観の影響があると見られる、現代の科学論争の事例を紹介します。

 
前置き
―温暖化の要因については論争中であること―
 
 本題に入る前に、確認しておきます。
 20世紀に地球の平均気温が上昇しました。しかしながら、その主原因は何か、という論点に関しては、科学者集団内で合意がなされているわけではありません。複数の科学的仮説が存在し、対立しています。
 一般にメディアで喧伝され、政治的な対策の根拠ともなっている、CO2温暖化説は、科学的理論としては一つの仮説に過ぎません。
 10年ほど前から、各種の学会において、要因論をめぐる議論をテーマとしたシンポジウム等が開催され、実質的な論争が継続しています。また、CO2主原因説に対する批判や異論が提起されています。これらは、科学的検討に値する内容を持っています。そして、この学説に対する少なからぬ数の懐疑派・批判派・否定派の科学者が存在しているのです。
 こうした情勢を踏まえれば、この要因論をめぐる論争は継続中、と判断できるでしょう。
 
私も、CO2主原因説は科学的には定説とはみなせない、と考えています。その主な根拠をいくつかあげてみます。
 まず、1998年以降の世界の平均気温がほぼ横ばいであり、IPCCなどのCO2主原因説に基づく予想―20世紀最後の20年と同様の上昇が継続するという予想―と相当かけ離れていること。データと理論との対応性は、科学的理論の妥当性を判断する際の最大のメルクマールです。
 また、過去の地球の歴史的気候変動への科学的理解と整合的でないこと(具体的には、たとえば奈良時代から平安時代にかけて、20世紀と同様の温暖化の時代があったらしいです。20世紀の温暖化も自然現象かもしれません)。関連する諸分野の知識・理論との整合性は、自然科学の体系内にその理論が収まりうるか否かの重要なポイントです。
 さらに、当初考えられていた、CO2主原因説の主な根拠が、根拠不十分であるとするさまざまな批判が存在すること(この点に関しては、私も論文を書いているのですが、今回は詳細には立ち入りません)。
 こうしたことから、私は、CO2主原因説が十分な科学的妥当性を有するとはいえない、と判断しています。

 
地球温暖化要因論争への影響
 
 さて、本題に入ります。
 科学的には定説とはいえないCO2主原因説が、あたかも定説のごとく流通するようになった背景には、いくつもの要因がありそうですが(この点に関しても、今回は詳細には立ち入りません)、そのなかの一要因として、「固定的自然観」の影響が考えられます。
 地球上の地域によって違いはあるものの、気候は1年間で、循環的に変化します。温帯であれば、春夏秋冬の四季が繰り返されます。そして、1年後にはまた、ほぼ同じような季節が戻ってきます。
 そのため、日常的な感覚としては、季節ごとの平均気温や、年間を通した平均気温は、あまり変わることはないだろうと思うでしょう。あるいはまた、老人が子供時代の季節と同様の気候を期待したりするかもしれません。こうした通念は、日常的思考かもしれませんが、長期的視点からは、根拠の乏しい「固定的自然観」といえそうです。
 なぜなら、古気候学の知見によれば、地球の気候は、数十年から数百年単位で周期的に変動してきたからです。今から千年ほど前のヨーロッパの中世や日本の平安時代は、現代よりもやや温暖な気候だったようです。また、ヨーロッパの近代や日本の江戸時代は、寒冷期であり、「小氷期」と呼ばれています(樹木の年輪や湖の底の地層に残された花粉の分析、放射性同位元素の解析、古文書などから大まかな傾向は推測できます)
 一人の人生の生存期間よりも長期的な視座に立てば、生物の種の形態は変化していきますし、大陸は移動します。一見、不変・不動に見える存在も、長期的には変化するのです。そのことが、科学的探究によって明らかになってきました。
 それらと同様に、1年で循環する気候も、全く同じサイクルで回っているのではなく、数百年単位の温暖期や寒冷期が到来していたのです。
 ところが、多くの人々は、地球の気候は100年前の気候と同じであるはずだ、あるいは、同じである「べき」だ、と根拠なく思い込んでしまっていたのではないでしょうか。そして、20世紀の温暖化現象は不自然なこと、異常なことと臆断してしまったのではないでしょうか。
 つまり、暗黙のうちに、常識的・日常的な「固定的自然観」に影響され、20世紀の温暖化が主に「自然現象」である可能性を排除してしまっていたかもしれない、ということです。
 20世紀の地球温暖化が不自然であり異常である、という根拠の乏しい前提を無自覚に受け入れてしまえば、次にすることは、人為的要因を探すことでしょう。その結果、CO2が主犯として浮かび上がってきたわけです。そして、たいていの人は資源やエネルギーの浪費に罪悪感を持っているため、批判的検討をすることなくCO2温暖化説を受容してしまったのではないでしょうか。
 ところが、これは冤罪かもしれません。前提が誤っていたかもしれないからです。
 確かに、20世紀には、地球の平均気温が急上昇した時期が2度ありました。1920年から1940年頃と、1980年から2000年頃にかけてです。しかしそれらも、自然的変動の範囲内かもしれません。過去にも、数十年単位で、気温が急上昇した時期はあったようです。たとえば、奈良時代から平安時代にかけての時期です。
 過去の地球の気候の変動に対する推測が参考に値するならば、20世紀の上昇をとりわけ異常なものとみなすわけにはいかないでしょう。また、過去の推測が信頼できないならば、そもそも比較の対象がないことになるので、20世紀の上昇が異常なのか自然現象の範囲内なのか、判断はできないはずです。
 したがって、「20世紀の地球温暖化は不自然であり異常である」という前提は、科学的には十分な根拠を伴うものではありません。それにもかかわらず、その前提を当然のごとく受容してしまったのは、背後に無自覚な「固定的自然観」が作用していたから、と考えられるのではないでしょうか。
 「100年前と気候は変わらないはずだ」という根強い常識的・日常的信念、すなわち「固定的自然観」が、この論争においても、科学的・合理的思考を妨げてきたのかも知れません。また、CO2温暖化説への批判者や代替仮説を無視・軽視するひとつの要因になっていたかもしれません。
 
参考:過去の気温変動の大まかな傾向(どれも、槌田敦『CO2温暖仮説は間違っている』ほたる出版、2006年、より孫引き。クリックで拡大)
 


歴史時代の気候変動
 

古気温曲線、温暖期と寒冷期 

 さらに、過去の科学論争と類似している点が、もう一つあります。
 コペルニクスとガリレオの論争や、ダーウィンの論争において、『聖書』に基づくキリスト教の宗教的介入があったのと同様、地球温暖化要因論争においても、擬似宗教的なイデオロギーの介入があった、という点です。具体的には、「環境保護思想」のことです。
 環境保護の営みに対して、批判する意図はありません。それが頑迷な宗教的信念にまでなってしまっている場合を念頭においているのです。
 ここで「イデオロギー」と表現したのは、「科学的根拠に基づかない信念」といったことです。環境保護を信仰のごとく奉じてしまうと、しばしば独善的になり、合理的な批判にも耳を傾けなくなりがちです。
 CO2温暖化説に対して懐疑的な議論をすると、「ではあなたは将来の地球環境がどうなってもかまわないのですか」といった、論点の異なる話になってしまうことがあり、話がかみ合わないことがあります。こうしたとき、私は、頑迷な新興宗教の信者と会話しているように感じます。
 環境保護に内在する価値観自体は、科学的に導き出せませんし、証明できるものでもありません。建前かもしれませんが、科学が価値中立を目指すならば、環境保護思想との結びつきは、科学外の価値観である「イデオロギーの介入」と見るべきでしょう。
 そのような意味で、論者によっては「環境保護思想」が宗教的なイデオロギーとして作用して、対抗学説に対する問答無用な無視・蔑視がなされてきた、と私には思われます。
(科学的思考様式も、見方によってはイデオロギーといえますが、ここではイデオロギーであること自体を問題にしているのではなく、異なる価値観によって本来のあるべき姿が歪められている状況を指摘しているのです)
 
 このように、地球温暖化要因論争において、定説とはいえないCO2温暖化説が広く普及していった背景には、過去の科学論争と同様の背景があったのです(もちろん現代という時代に特有の背景もありますが)
 気候に対する「固定的自然観」が冷静な科学的思考を妨げ、また、擬似宗教的なイデオロギーが介入し、批判を黙殺してきたのです。地球の気候変動の実相を的確に捉えたい欲求をもつ人々にとって残念なことですが、過去の論争と似た図式がまた出現していたのです。


 

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