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作曲と思索の愉しみ

オーケストラ作品の作曲・制作過程や、科学史と音楽史の研究にかかわる記録です。 森さちやの自作曲の公開も行います。 曲と思索を分かち合いたい。

竹端寛『枠組み外しの旅』を読んで考えたこと 

Posted on 09:47:34


 職場の同僚の竹端さんから、縁あって、この本をいただきました。
 
 竹端寛『枠組み外しの旅』(青灯社、2012年)
 
 とても読みやすい、人を惹きつける文体で書かれているためか、没入して読みました。
 読み進めていくうちに、この本のテーマに関連するさまざまな事柄へと思索が広がっていきました。
 まず、この書物の主題を簡単に紹介して、続いてこの本に刺激されて生成してきた私の思考の断片のいくつかを語ってみようと思います。


 
『枠組み外しの旅』のテーマ


 この本の主要テーマは、2つあり、ひとつは、人間の成長過程・個性化の過程を「枠組み外し」の観点から考察すること、もうひとつは、福祉の現場での支援行為などにおいても、双方を巻き込んだ同様の創発的成長過程が重要だと示すこと、と私は読み取りました。
 

 竹端さんの言う「枠組み外し」とは、世界に対する自分の見方を問い直し、自らが囚われている枠組みの限界に気付き、その枠組みを外すプロセスに身を投じる、といった一連の過程をまとめた言葉です。
 竹端さんが囚われていた枠組みの例として、食事のあり方(食べ過ぎの正当化や3食決まった時間に食べること)、大学教員の肩書き、などが挙げられていました。
 そして、枠組みを外すプロセスに対して、「学びの渦」という表現を与えています。
 “渦”という言葉に、竹端さんは、他者との関わりの視点をもった関係的主体が、自らの呪縛からの解放と連動して、周りの世界を巻き込み、巻き込まれて、自他共に変容を遂げていく、というイメージを託しているようです。
 福祉の現場においても、優れた精神科ソーシャルワーカーたちは、障害者たちとの出会いを契機に自ら変容し、「学びの渦」を生成して周囲を巻き込んでいく、という構図が見られることを、竹端さんはフィールドワークに基づいて指摘しています。

 私が考えたこと


 私が最も感心したのは、悪循環構造に嵌った枠組みから抜け出るのに、好循環のサイクルへの移行を提示しているところでした。
 復讐に対する贈与、「後追い」に対する「先手を打つ」こと、「すでにくれた人に贈る」に対する「これからくれる人に贈る」、といった対比の提示です。
 自ら囚われていること、「後追い」の限界に気付き、“箱の外”へ出て、プラスの循環、「これからくれる人に贈る」という主体へと変容していく、このプロセスこそが「枠組み外し」の肝要な点だ、という見方です。
 
 この見方は、私にいくつもの思考のヒントを与えてくれました。
 
(1)私も研究者なので、研究論文を書くことがあります。その際、研究論文に定着している「先行研究の批判・検討」という様式があるのですが、この様式と私の研究スタイルは相性が悪いのか、馴染めず、居心地の悪さを感じていました。
 その居心地の悪さに対して、私は積極的には戦わずに退避していただけ(まあ適当でいいかとお茶を濁していただけ)なのですが、なぜ居心地が悪かったのか、言葉で明示的に表現できることがわかりました。
 いうまでもなく、学問分野の継承性や、当該研究の位置づけの観点から、先行研究は無視できるものではありません。ですが、論文を書く際に、先行研究の縛りを意識しすぎてしまうのは、竹端さんの言う「後追い」「すでにくれた人に贈る」循環に嵌り込むことになりかねません。
 この様式は、研究の自由度を奪う可能性を内包している、ということです。枠組みに縛られて、蓋をされた範囲内でしか考察が展開されない、という危険性をはらんでいるのです。
 さらに、現実の研究過程では、先行研究の延長上に自身の研究が展開されるわけでは必ずしもなく、私の場合はたいてい、先行研究とはほとんど関係ない自身の内的動機から、その研究に従事しているのが実情だからです。
 そのため、論文では、形式的に「先行研究の批判・検討」を“論理的再構成”する必要が生じたりもするので、私は馴染めなかったのでした。
 やや飛躍しますが、これらに対し、竹端さんの本をヒントに、私が得た暫定的見解は、「論文は贈与である」という視点です(論文は復讐ではない)。
 他者の批判的視線を過剰に意識した「論文の形式性」に拘泥するよりも、論文がもつかもしれない未来への萌芽のために、「理解してもらえること」への配慮を重視したい、という姿勢(両立不能というわけではありませんが、どちらをより優先するかという問題です)。
 実は、私はある時期から、先行研究の提示にあまりこだわらなくなっていたのですが、その内実の変化を明示的には自分で理解していませんでした。この竹端さんの本をきっかけにして、上記のように言語化して納得することができたようです。
 
(2)また、「枠組み外し」の構図から、科学理論に関するデュエムのテーゼ、「理論は理論によってのみ覆される」(事実の集積では倒されない)という見方が、連想されてきました。理論転換は、帰納的・連続的過程ではなく、質的に不連続な跳躍過程なのです。
 悪循環サイクルに囚われた枠組みからの離脱は、異なる循環サイクルへの移行によって成し遂げられる、という人間の成長ステップと、自然科学の歴史的展開の過程との間に、相通じる構造的類似性が見られる点は、実に興味深く感じました。
 そして、おそらくこの構造は、人間の文化的営みのほとんどすべてに共通するものなのではないか、という見通しが私に到来しました(構造主義的視点を再確認したということかもしれません)。
 学問分野の展開のみならず、文学や音楽や美術の歴史の変遷についても、人間の成長との類比の視点、異なる循環サイクルへの移行の観点、枠組み転換の視座から捉え直すこともできそうです。
 枠組みや理論を相対化してみることができた後には、その外側に、その枠をさらに覆っていた枠や理論、その分野の暗黙の構造に気付く可能性があります。その意味では、人間の文化的営みも、人間個人の成長過程も、終わりのない旅なのかもしれません。
 
(3)贈与する主体への変容、という構想は、仏教思想と親和的だ、と感じました。
 大乗仏教の実践徳目のひとつ、「布施」の考え方と、その背後の思想にとてもよく似ているように、私には思われます。
 「布施」という行為においては、その行為と自らの精神の変容とが連関します。贈与する主体へと変容するということは、「布施」の理念の血肉化、といえそうです。
 また、竹端さんが福祉の現場の実例を引いているように、贈与的行為の背後には、相手に対する尊敬の念、障害者の中にも仏様を見る、というような人間観・共生的自然観があるように思います。この考え方は、大乗仏教の「一切衆生悉有仏性」の思想と通じるものでしょう。
 お互いのなかに仏性を感じられるからこそ、「学びの渦」は生成し、相互に変容を遂げることができるのではないでしょうか。
 

 このような文章を今つづっているのも、私が竹端さんの「学びの渦」に巻き込まれ、相互に変容する過程が創発しつつある、ということなのかもしれません。
 

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ジャンル - 学問・文化・芸術

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