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作曲と思索の愉しみ

オーケストラ作品の作曲・制作過程や、科学史と音楽史の研究にかかわる記録です。 森さちやの自作曲の公開も行います。 曲と思索を分かち合いたい。

カラヤンとプルシェンコ―帝王と皇帝の共通点― 

Posted on 08:55:59

 
 20世紀後半の代表的指揮者、ヘルベルト・フォン・カラヤンと、フィギュア・スケート界のレジェンド、エフゲニー・プルシェンコには、顕著な共通点があることに気づきました。
 二人とも、「帝王」とか「皇帝」などと称されるカリスマであることは言うまでもありませんが、さらにもっと本質的な共通性があります。それぞれの分野を、そっくりなやり方で、新時代へと導いていった人物だと、私は理解しています。

 
日曜作曲家の視点から見たカラヤン
 
 プルシェンコとの共通性の話に入る前に、私個人が、カラヤンをどのように捉えているのかについて、語っておきます。カラヤンに対しては、在命当時から、さまざまな評価がなされていたからです。
 一般的には、カラヤンは、史上有数の指揮者として、また、LPレコードの売り上げに多大なる貢献をし、クラシック音楽業界に空前の活況をもたらした人物として、知られています。
 その一方、彼に対する「芸術家」としての評価は、好き嫌いが激しく分かれています。絶賛する方々もいる反面、カラヤンの音楽に対しては、表面的だ、人工的な美しさだ、解釈が浅く精神性に乏しい、といった批判もよく見受けられます。
 こうした類の批判に対する私の見解は、演奏によってはそう感じる場合もある、という程度には首肯できる、というものです。カラヤンのレパートリーは極めて広いのですが、作曲家との相性はやはりあります。ロマン派以降の作曲家で、なおかつ、豪華絢爛な厚い響きを持つ作品を書く作曲家との相性がいいように、私は感じています。リヒャルト・シュトラウスや、チャイコフスキーの管弦楽作品を指揮して、カラヤンを凌ぐ指揮者を想像するのは、私には困難です。
 
 さて、ここから本題に入って行きます。私は趣味で管弦楽曲などを創作している日曜作曲家ですが、作曲する立場から見ると、カラヤンは実に望ましい指揮者に映ります。その理由は、二つあります。
 まず、指揮者による色付けが少ないため、作曲家の表現したいことを、他の指揮者よりも直に感じ取ることができる、ということ。少なくとも私はそう感じています。カラヤンの指揮はナチュラルを志向しています。(かつて「カラヤンの中身は空やん」という関西弁の(?)駄洒落がありました。結構本質を突いていたと思います。よく解釈すれば、中空のカラヤンに作曲者が憑依し、作曲家の意志がよりよく映し出されるわけです)
 二つ目は、オーケストラの統率力が抜群なため、音楽の細部に至るまで、きめ細かく表情が描き込まれている、ということ。その結果、やはり、作曲家の目指していたものをよりよく感じ取れることにつながります。
 私は、クラシックの音楽作品を、自分が作曲する際の参考資料として聴き込むことがしばしばです。その際、カラヤンの演奏は、とても重宝するのです。カラヤン指揮の交響曲からは、作曲家の声が聴こえる、と感じることがあります。
 
自作曲の演奏を聴いた作曲家、シベリウスとショスタコーヴィッチは、カラヤンの指揮を絶賛しています。シベリウスは、次のように語っていたそうです。「カラヤンは私の音楽を本当にわかっているただ一人の人です」(『レッグ回想録』、板倉重雄『カラヤンとLPレコード』アルファベータ、2009年、p.130、より孫引き)
 ただし、ストラヴィンスキーは、カラヤン指揮の≪春の祭典≫を拒絶しました。作曲家からの評価も、激しく分かれています。
 
 そして、やや回り道になりましたが、上記の理由の二つ目が、カラヤンとプルシェンコとの共通点につながっていきます。
 
カラヤンとプルシェンコの共通点
 
 オーケストラの演奏と、フィギュア・スケートの演技には、そもそも類似性があります。それはどちらも、芸術的要素と技術的要素が複合的・相乗的に作用して生成していく演目であることです。フィギュア・スケートでは、演技構成点と技術点に分けて採点しているようです。
 この二人の注目すべき共通点は、その技術的側面にあります。
 カラヤンの芸術的センスに関しては、賛否両論ありますが、彼のオーケストラの表現能力については、異論を挟む余地はないでしょう。カラヤンは、オーケストラによる表現に、新境地を切り開いた人物でした。
 もともと、オーケストラという大人数所帯では、演奏表現の意思統一がうまくいかないものです。曲の出だしや、強弱のつけ方や、テンポの落とし方、フレーズのアーティキュレーションのつけ方、などなど、どうしてもばらばらに、ちぐはぐになってしまいがちです。そのため、指揮者による統率が要請されるわけです。
 カラヤンは、オーケストラを意思統一して演奏する能力を、それ以前の時代の指揮者に比べて、格段に飛躍させました。カラヤンの前の代のベルリン・フィルの常任指揮者、フルトヴェングラーや、20世紀中頃の巨匠たち、トスカニーニやワルターらと比較してみて明らかです。芸術的表現の観点をとりあえず脇において、オーケストラの技術的演奏能力を比べるならば、カラヤンの演奏は、一言で言って「緻密」です。それに対し、巨匠たちの演奏は、ややもすれば「大雑把」に聴こえることがしばしばです。団員たちの演奏に統率が取れていない個所が散見されるのです。リタルダンドしたあとの、出だしや曲のテンポがそろわないことがあったりします。そうした、オーケストラの持つ弱点が現れないように、徹底的にオーケストラを鍛え上げたのが、カラヤンでした。
 カラヤン率いるベルリン・フィルは、もともと高水準の団員の能力と、ドイツ民族の勤勉さ・真面目さとが相俟って、カラヤンの厳しい要求に応じることができたのでしょう。
 
私は以前から、カラヤンの演奏をもとに、ベルリン・フィルでは相当な“調教”がなされていたであろう、と想像していました。その推測がそれほど的外れでなかったことが、指揮者の高関健さんの証言でわかりました。高関さんは、カラヤンの下で、アシスタントをしていたことがありました。その時期の経験談を次のように語っています。「実際カラヤンの練習はものすごく細かくて、私はオーケストラに対するカラヤンの指示をスコアにメモして、その指示が本当に音になって、バランスが整えられて行くのを耳で覚えるようにしました」。また、カラヤンが作曲家本人の意図を重視していたことは、次の証言からもわかります。「私にとってカラヤンに言われて最も感銘を受けたのは、「楽譜を正確に読め」ということです。カラヤンの練習を見ていると、いつも「オリジナルに戻れ」と言うのです」(「帝王のアシスタントだった高関健さんが語る『教育者カラヤン』」、『文藝別冊 カラヤン』河出書房新社、2013年、p.56, p.59)
 
 そして、カラヤンが到達した境地に、やがて、他の指揮者たちも迫っていきました。ここまでできる、ということを、カラヤンは示しました。それがわかったため、他の指揮者も、そのレベルを目指すようになり、指揮者によってはそれが達成できたのです。つまり、カラヤンの努力によって、世界中のオーケストラの技術的水準がワンランク上がったのです。
(カラヤンに匹敵するほどの統率力を発揮し、技術的水準の高い演奏をする指揮者としては、シャルル・デュトワや、ジェフリー・テイトがいます。これはあくまで私の個人的印象ですが)
 
 フィギュア・スケート界を牽引したプルシェンコも同様です。
 プルシェンコは4回転ジャンプや4回転からのコンビネーションジャンプを跳び、なおかつ、競技の本番でも安定的にそれらのジャンプを高水準で披露することができると、身をもって示しました(ただし、最初の4回転ジャンパーは、カート・ブラウニングだそうです)。実現の可能性が提示されると、他の選手たちも、当然そのレベルを目指すようになります。一人ができるなら、他の人にもできないことはないのです。つまり、プルシェンコの活躍によって、フィギュア・スケート界の技術的水準がワンランク上がったのです。
 こうしたことは、陸上競技や水泳で、ひとたび記録が破られると、以前の世界記録を超える選手が次々と出現する事態とも似ています。
 
 
まとめると、カラヤンとプルシェンコは、二人とも、芸術的側面と技術的側面が要請されるジャンルにおいて、技術的側面に新境地を切り開き、その結果、それぞれの領域のレベルを向上させた、という共通点があったのです。


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