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作曲と思索の愉しみ

オーケストラ作品の作曲・制作過程や、科学史と音楽史の研究にかかわる記録です。 森さちやの自作曲の公開も行います。 曲と思索を分かち合いたい。

相対音感と絶対音感とのモードチェンジ 

Posted on 09:50:35

 
 「絶対音感」という能力のデメリットに焦点を当てて書かれた論考を読みました。
 
 「標準ピッチと絶対音感」(西原稔・安生健『アインシュタインとヴァイオリン―音楽の中の科学―』ヤマハミュージックメディア、2014年、第3部第3章)
 
 この章の後半は、安生健氏が執筆しています。この論考からは、いくつか得るものがありました。特に、①「固定音感」としての絶対音感は、害多くして益少ないこと、②絶対音感の習得は、幼少期の頃の母国語の習得と似ていること、この二つの論点に関して、私は実に納得できました。
 ここでは、その安生氏の知見を出発点として、私がさらにめぐらせた考察を、記録しておこうと思います。

 
 安生氏は、「固定音感」としての絶対音感に伴いがちな問題点を、いくつか指摘しています。その中でも最大の弊害が、自分の音程感覚を修正できないため、他の人の音程感や音の高さの感覚と調和できず、合奏の際に融通が利かなくなってしまうことです。
 そして、その「固定音感」は、たいていは幼少期に習得されたため、母国語がその人の言語能力を支配するように、その人の音程感覚を支配してしまう、と安生氏は考えているようです。
 
絶対音感とは、その曲の調性とは独立に、それぞれの音の高さが聴こえてくる感覚のことです。それに対し、相対音感とは、その曲の調に応じて、主音がド、それ以外の音はドを基準としたドレミが聴こえる音感です。たとえば、Fの音から始まる♭ひとつのヘ長調の音階は、絶対音感ではファソラシ♭ドレミファと聴こえ(音名が聴こえる)、相対音感ではドレミファソラシドと聴こえるのです(階名が聴こえる)。
 
 この議論を読んで、十分に納得した私は、自分の音感の獲得経緯を振り返って、自分なりにわかってきたことがありました。
 私は、小学生の頃には、相対音感を持っていることに気づいていました。そして、中学・高校と吹奏楽部で演奏現場に居合わせているうちに、“たどたどしい”絶対音感が身についてきました。
 “たどたどしい”というのは、日本語は不自由なく話せるけれども、英語は“たどたどしい”話し方しかできない、という感覚と似たニュアンスです。母国語でない英語を話すときには、日本語の会話とは異なるモードを装わないとうまくいきません。それと同様に、相対音感がベースになっている私の場合、意識的に聴き方を変えて、頭の中で階名ではなく、無理やり音名を鳴らす作業をする、ということになります。
 高校生の頃には、ピアノの鍵盤上の音に対応づけるような、「固定ド唱法」に相当する聴き方をせざるを得ない状況下で、それぞれの音の高さを音名で歌えるようになってきました。
 結果的にそのような訓練をしてきたとはいえますが、意識的に、あるいは意図的にした訓練ではなく、吹奏楽部の合奏の際にそう聴くように強要された、というのが実情に近いでしょう(もちろん誰かに強要されたのではなく、そうせざるを得なかったということです)。何度も転調する曲を、主音のドが移動する階名で追っていては、途中で破綻してしまいます。音名で他のパートの音を追い続けていれば、自分のパート(フルート)の演奏時にスムーズに入れます。
 つまり、演奏現場での必要に駆られて、“たどたどしい”絶対音感を多少は身に着けたのです。必要に駆られて英語がある程度は話せるようになる、というのと事情は似ています。
 私のような、相対音感をベースにした、外国語感覚の絶対音感を、母国語感覚の絶対音感と同列に論じることはできないでしょうし、そもそも絶対音感の範疇に含めてよいのかもわかりません。しかし、このようなタイプの絶対音感(もどき)もあるのです。そして、私のような音感の持ち主は、吹奏楽やオーケストラで演奏に携わった経験のある人の中には、程度の差はあるかもしれませんが、相当いるだろうと推測できます。演奏現場では、その必要性があるからです。
 とりわけ、金管楽器の演奏者にとって、この能力は必須と思われます。同じ指使いでいくつもの倍音を吹き分けなければならないのですから。スコア上の音符の高さを「狙い撃ち」するには、その音の高さをイメージしている必要があるでしょう。そうでなければ、音をはずしがちになってしまうでしょう。ホルン奏者は皆、“隠れ”絶対音感かもしれません。
 このような、外国語を身につけるようにして習得した絶対音感は、少なくとも私の場合、必ずしも「固定」されてはいません。たとえば、ピリオド楽器でのバッハの演奏を聴き込んだ後では、半音ほど低いチューニングに耳が慣れ、音感がずれたりします。また、音のすべての領域をカバーできるわけではありません。楽器の音や電子音に対しては、意識的に対応できますが、エアコンの音とか洗濯機の音などの場合、わからなかったり、間違ったりします。このあたりが、幼少時に母国語のように身につけた「固定音感」としての絶対音感との違いと考えられます。
 そして、こうした不安定で相対的な“絶対音感もどき”には、「固定音感」に伴いがちな弊害はそれほどなさそうです。むしろ、合奏時に調和的に演奏するのに有益と思われます。多少ピアノの音程と外れていても、その演奏での音の高さの感覚にあわせることに違和感はないからです。また、和音の形成時に平均律の音程に対して少々音程を上下させて、よりよく協和するようにしたり、導音から主音にいたる流れ(ハ長調でシ→ド)で導音をわずかに高めにとったりすることも、自然にできるからです。そうした状況では、相対音感的感覚で演奏していることになります。
 したがって、大事なことは、相対音感と絶対音感の両者の感覚を行き来できる能力、モードチェンジ力といえるのではないでしょうか。
 私の過去の音楽活動を振り返ってみて、この両者の感覚を往来して見えてきた音の世界がありました。たとえば、作曲にはこの両者の感覚を行き来することが役立ちます。転調の多い曲を構築していく際には、絶対音感的感受性が有効です。それに対し、対位法的に複数のメロディーラインをスムーズに流れるようにするには、相対音感的感受性が効いてきます。あえて図式的に語れば、知的構築に関しては絶対音感を優位に活用し、旋律の自発的な成長過程に対しては相対音感が優位になるように、モードチェンジを行っている、ということです(無意識のうちに行っていることを吟味してみれば、こういうことだと思います)
 安生氏が指摘する絶対音感の弊害は、その「固定的」音程に固着してしまい、自由度が失われてしまうことに起因しています。状況に応じて、日本語と他の言語を併用せざるを得ない場合があるように、自分の音感も、モードチェンジを行って、融通を利かせられるようにしたいものです。

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