ジョン・J・レイティ&リチャード・マニング、野中香方子訳『野生の体を取り戻せ!』(NHK出版、2014年)
この書物の細かい内容には、立ち入らないことにします。
文明に飼い馴らされた生き方からの脱出を志向している、という点においては、私と問題意識を共有している、と、読み始めの頃は感じました。しかしながら、読み進めるうちに、違和感がじわじわと膨らんできたのです。
通読し終えて、しばらく頭を捻っているうちに、その違和感の焦点が2点に絞られてきました。
ひとつ目は、「処方箋」です。
野生を取り戻すにはこうすべきだ、という提言が数多くなされ、最後の章では、「あなたのための処方箋」という見出し付きのまとめで終わっていました。
さすがにこれには辟易しました。
「処方箋」に従って生きる、というのは、実に文明的な行動様式ではないでしょうか。
私の感覚では、管理された文明社会の束縛から解放された生き方こそ、野性的な生き方であろうと思います。これでは、再び自らを縛ってしまいます。
身体感覚よりも、大脳や言語による指令が優位な生き方から逃れられません。
ふたつ目は、手段が自己目的化してしまっているように思われる点です。
英語の原著タイトルは、“Go Wild”であり、野性的に生きることが、当初の目的であったことが確認できます。ところが、本文全体の内容は、日本語訳書のタイトルに近く、(食生活や運動や睡眠や精神などをコントロールすることによる)「野性的な体の獲得」を目指しているように読み取れました。
しかしながら、「野性的な体の獲得」は、「野性的に生きる」ための手段、あるいは補助であり、目的ではありません。その手段があまりに重要視され過ぎ、本来の目的―野性的に生きること―が軽視され、かえって文明的・作為的な方策を導入することに対する躊躇が乏しくなっているように感じました。
私の感覚では、文明的価値観は、気づかないうちにひっそりと人々の精神や肉体を侵蝕してくるものです。それに対する惧れと警戒が、やや欠如しているのではないか、と感じられた次第です。
野性的な体を「人工的に」作ろうと試みているように、私には思われました。
逆に、「野性的に生きる」志向性を維持して生活しているうちに、自ずと「野性的な体」が形成されてくる、というのが望ましい在り方ではないでしょうか。
結局、「野生」"wild"という概念に対する意味付与の仕方が、著者たちと私との間で若干異なっていたのだ、と了解されてきました。それが、私の覚えた違和感の正体だったようです。
筆者たちの考える「野生」の意味は、私の理解する「野生」の意味と、少々ずれていたのでしょう。
さて、この書物から感じたその違和感を梃子にして、私なりに、より野性的に生きるための心身の在り方、を考えてみました。具体的な提言ではなく、抽象的な方向性です。
(1) 言葉による知的な指令よりも、身体の発する声を尊重する。
自分の内なる生命の流れと調和的に生き、思考に頼り過ぎない、ということです。
例えば、私は日常的には、脂っこい食べ物や肉を好まないのですが、時折、食べたくなることがあります。それは身体が要求しているのだろう、と受け止め、中華料理屋でレバニラ定食を食べたりします(2週間ほど前のことです。近所の寿福楼でランチを食べました。残念なことに、少なめにしてもらったご飯も、レバニラも、スープも、杏仁豆腐も、どれも3分の1程度残してしまいました。もうこれで十分、とのお腹の声に従ったのです)。
また例えば、結婚や就職・転職、転居などの人生の転機の際の決断において、合理的な思考に頼り過ぎずに、身体感覚や直観にも十分に相談して、納得感の得られるような判断をする方が望ましいのではないでしょうか。
その方が、より人為性の少ない、自然な流れに乗った人生を送れる可能性が高まるように思います。
個人的には、研究や作曲に関しても、そのような「野性的」な志向を忘れずにいたいと考えています。
(2) 明文化されたルールに縛られ過ぎない。
言い換えれば、「臨機応変に生きる」ということです。
例えば、「規則的な生活を送る」とか「睡眠時間を7時間から8時間取る」といった指針は、それ自体は悪くないですが、身体の調子次第ではルールを破った方が体は喜ぶ、ということもありうるでしょう。体の声を聴くのです。
また、細かいルールを作りすぎると、束縛感が大きくなり、自由な行動の芽が摘み取られてしまうように感じます。
(3) 文明的価値観に侵蝕されている側面に気づいたら、それから距離を置くか、その価値観を手放す。
一言でいえば、「求めない生き方」をする、ということです。
現代の文明社会は、人々に対して、巧妙に刺激して、様々な欲望を引き出したり捏造したりします。美食や素敵な住居や魅力的なマイカーへの欲望、金儲けや出世・名誉への渇望などは言うまでもありませんが、「若さ」や「健康」へのこだわりや、「長寿」への願望も、その類の文明的な欲望でしょう(野性的な生への人為的介入という点で)。
年齢相応に生きる、あるいは自分に見合った生活をする、と心身の深いところから納得できれば、そして、やがて老い、死んでいくという生物学的事実―野生の現実―を十全に受け止められるならば、文明社会の提供する不必要な欲望には付き合わないで済み、「求めない生き方」ができます。「体の声を聴く」生き方に近づきます。
そして、それらの価値観を手放すほど、肩の荷が下り、より心穏やかな生活ができるように思います。
飼い馴らされた文明社会の檻の中で、超然と生きるには、このような志向を心身が抱くことが肝要なのではないでしょうか。
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